2024年入賞作品
「父のぼやき」野入 桃子(10)福岡県
「消しゴム応援団」見澤 有美(39)埼玉県
「かっこいいうんてんしゅさん」熊谷 碧歩(6)東京都
「へへっ。」池田 茉白(16)千葉県
「お父さんはあいさつ名人」吉井 咲喜(13)群馬県
「父への贖罪」来住 裕志(61)東京都
「最期に父は…」鈴木 恵美(58)宮城県
野入 桃子(10) 福岡県
パチッ。パチッ。今朝も聞こえる不気味な音。父が薬を準備する音だ。大小合わせて合計九個。それに加えて粉の薬も飲まなければならないからおどろきだ。
「ママのご飯を食べる前に腹いっぱいだよ。」
そう父がぼやくけれど仕方がない。生命い持には必要なことなのだから。
父は、抱えている病気があるから薬をたくさん飲んでいる。飲む薬が多すぎて胃に負担がかからないように胃薬までのむ。薬を飲むために飲む薬って一体なんなのだろう。私にはよくわからないことだらけだ。薬は朝、昼夕の毎食後と寝る前。とどめに食前。
「どれだけ飲めばいいんだよ!」
父の薬に向かって、そうツッコミを入れたい。
父は粒状の薬を飲めば、
「のどにひっかかる。」
と言い、粉状の薬を飲めば決まってむせる。毎日飲んでいるのだから、もういいかげんに慣れてほしい。私は花粉症なので、花粉の時期に薬を飲む。たった一粒のそれでも飲みにくいのだから、薬の量を考えたら父がぼやくのも無理はないのかもしれない。
ある日、『笑うことでめんえき機能が上がる』という記事を新聞で読んだ。「めんえき」
というのは、病気の原因になる物質が身体に入って来た時に、それをやっつけてくれる自分の細胞の働きのこと。笑うことで幸せな気持ちになると細胞が良い働きをしてくれるなんてすばらしい。その結果、症状が消えたり軽くなることもあるそうだ。この情報を得て私は、父の薬を減らすべく作戦を立てた。父を笑顔にして自己めんえきをあげる作戦だ。飲む薬が多すぎることで満腹になって、母の作るおいしいご飯を食べられないなんて、とても残念なことだから。
夕食の時、その日にあった面白い話をする。父は笑いながら私の話を聞いてくれる。「お返しに」と、今度は父が面白い出来事を話してくれる。父の話に私は笑い転げてしまう。私が病気もせずに健康なのは、母のおいしいご飯と、父の面白い話のおかげなのかもしれない。父を笑わせようとしているはずが、私の方がいつも笑わされてばかりだ。
人の感情はとても大切だ。幸せと思えることが多ければたくさん笑顔になれるけれど、つらいことが多ければ笑顔は消える。「笑うことでめんえき機能があがる」とわかっていても、笑えない時だってある。大人だってつらい時はつらいのだ。だからこそ、気持ちをまわりに伝えることが大切なのかもしれない。つらいと言えることで心が救われることも、きっとあるはずなのだから。
パチッ。パチッ。不気味な音と共に今日も父のぼやきが始まる。そんなぼやきを私は、
「そうだよね。大変だよね。」
と、やたら大げさに共感して聞いてあげる。作戦実行から三か月が過ぎた。いまだに父の薬の数はひとつもへっていない。けれど、父が薬を飲むときにむせることはなくなった。たとえ今はこれだけでも、すばらしい成果だと私は思う。この作戦で、いつか父の薬がへる日がやってきたらいいな。
私の夢はパン屋になることだ。将来、私が焼いたパンを父がうれしそうに食べてくれる。そして、とっておきの笑顔で父が私にこう言うのだ。
「こんなにおいしいパンを食べたら、薬なんかなくても健康になってしまうな!」
お父さん。毎日ぼやきながらも、楽しく笑って、長生きしてね。
見澤 有美(39) 埼玉県
幼い頃、私は勉強が苦手だった。いや、正直に言うと嫌いだった。ひらがなが書けるようになったのは2年生だし、九九なんか未だに間違える。出来損ない?そうかもしれない。何をやっても出来のいい兄には適わなかった。
そんな状況にやきもきしていたのだろう。休日になると父が勉強をみてくれた。しかしなかなかペンが進まない。計算。漢字。絵画。作文。原稿用紙以上に真っ白になったのが頭の中。
「なんで書かなんだ?だって宿題だろ」
父は苛立った。書かないのではなく、書けないんだ。そう思ったが言えなかった。失敗したら、きっと、怒られる。そんな気がしていつまでも下を向いていた。
あれから自分も親になり、息子の宿題を見るようになった。
「なんで何も書かないの?」
「だってぜんぜんわからないんだもん」
「ひと事くらい何かかけるでしょう」
「なにかいていいかわからない……」
「そんなこと言ったって宿題じゃない!」
下を向く息子はかつての自分。声を荒げる私はかつての父だった。結局私も父とおんなじ。子どもの気持ちに寄り添えない、ダメな親だった。
しかし、である。久々の帰省中。その状況を見た父が「オレにまかせろ」と言い出した。なんだか嫌な予感がした。宿題を前に息子は相変わらずの様子。目はうつろ。何を考えているのかもわからない。むしろ何も考えたくないようにも見える。
そんな息子の前でいきなり父が消しゴムを並べ始めた。
「ほーら。おもしろいだろぉ」
自慢するように一つ一つ机に並べる。ウルトラマン。ピカチュウ。キリン。ゴジラ。ティラノサウルス。この日のために用意していたのだろう。突然現れたキャラ消しに息子も思わす前のめり。
「これはお前の応援団だ。間違えたら消せばいい。どんどん使ってくれ」
息子は机に向かいだした。やりかけの日記。計算。ひらがな。それらを次々とこなしてゆく。
「1+3は5じゃないよ」
父が言うと「あ!消さなきゃ」と笑う。「く」の文字が「>」になっても「こんどはどれで消そうかなあ」とにんまり。何だか間違えたことさえ嬉しそう。全然かけなかった日記だって父のおかげで一歩踏み出せた。
『ぼくわきようたのしかつた』
間違いだらけの日記。それでも消しゴムをたくさんくれた父はいい言葉もたくさんくれた。
「間違えてもいいんだよ」
「間違えた方がいいんだよ」
「間違えたら消せばいい。とりあえず書いてみよう」
それを見て思った。消しゴムの役割は消すことじゃない。間違えてもいいんだよ、と安心させることなんだ。そして人生における消しゴムとは「僕がついてるから思いきりやってみろよ」と安心させる人。息子にとっては父だった。
その様子をキッチンから見ていた母は「お父さんも消しゴムみたいに角が取れたのね」とはにかんだ。私もクスっと笑った。
本当は私もそうして欲しかったけど、それがかなわないから息子が貰った消しゴムはちょっと羨ましくて、すごく愛おしい。
果たしてこの先。息子はどんな人生を歩むのかな。前に進むのが怖くなった時。不安な時。「間違ってもいいんだよ」と背中を押せるような親でありたい。
そんな気持ちでウルトラマンの消しゴムを見ると、なぜだろう。自然と勇気がわいてきた。
熊谷 碧歩(6) 東京都
ぼくのおとうさんは、くるまのうんてんがじょうずです。まいにちたくさんの人ににもつをとどけるおしごとをしていて、おおきなくるまをうんてんできます。
おかあさんはうんてんがにがてで、ぼくたちをようちえんにおくるときもむかえにくるときも、いつも
「こわい、こわい。」
といいます。でもおとうさんはぜんぜんこわがりません。
ちゅうしゃじょうでも、くるまとくるまのあいだにいっかいでとめられます。せまいみちもすいすいはしれるし、おおきなくるまとすれちがうのもじょうずにできます。はじめてのばしょにいくのもへっちゃらです。よるのくらいみちも、こうそくどうろも、どこでもじょうずにうんてんできます。
そんなおとうさんをみてぼくはいつも
「すごいな、かっこいいな。」
とおもいます。そして、おとうさんがうんてんするくるまにのりながら
「ぼくも大人になったらおとうさんみたいにかっこよくうんてんできるようになるのかな。」
とかんがえたりします。そんなはなしをしたら、
「あと十二ねんしたらくるまのめんきょがとれるよ。」
とおとうさんがいいました。
ぼくが十八さいになってめんきょをとったら、いちばんさいしょにおとうさんをくるまにのせてあげたいです。ちゅうしゃじょうにかっこよくとめて、はじめてのみちもせまいみちもくらいみちもこうそくどうろもかっこよくうんてんして、おとうさんをびっくりさせたいです。そしてぼくがうんてんするするまにのって、二人でたくさんいろいろなところへあそびにいくことがぼくのゆめです。
池田 茉白(16) 千葉県
幼い頃に、まっ暗な空から暖かな街灯の光に照らされて輝く雪がハラハラと舞い落ちてきたという記憶がある。かじかむ手のひらと頬にささる冷たい空気を感じた後、私は家族と救急車に乗っていた。救急車の中で母は横たわり、父は私を膝に乗せ、私は初めて乗る救急車にワクワクしていた。これは、私の妹が生まれた日の記憶である。切迫早産になった母は産院に入院したその日に陣痛が始まってしまい、深夜にNICU(新生児集中治療管理室)が備わった大きな病院に救急搬送されることになった。連絡を受けた父は、ベビーカーに私を乗せて雪がちらつく中、猛ダッシュで病院に駆けつけ救急車に同乗した。妹は未熟児で生まれたものの幸いなことに何の問題も無く、現在も非常に乾いた態度で生意気な口ばかりを叩いている。
そもそもなぜその日、タクシーを使わずにベビーカーを押して猛ダッシュしたのだろうか。当時、我が家に車は無く出産の際の非常時にはタクシーを使うという話になっていたそうなのだが、母が急に入院して父が夕飯の惣菜などを購入したため所持金が無くなってしまったのである。付き添いの家族がなかなか来なかったため、先に母だけを救急搬送しようとした矢先に父と私が何とか病院に到着したそうだ。父はいつもタイミングが悪い。母からもいつもその事で理不尽に叱られたりしている。私から見ても、いつもいて欲しい時にその場にいなかったりする。
では、私が生まれた時はどうだったのだろうと思い、父母から話を聞いてみた。私が生まれる日の早朝、母が破水したという連絡を受けた父は急いで品川駅から新幹線に飛び乗り、橋を渡り香川県に駆けつけたそうだ。初めての出産ということもあり、立ち会い出産に臨んだ父は、動画を撮ると息巻いていたにもかかわらずあまりの凄まじい場面に萎縮して録画することを忘れてしまい、動画は出産後から祖母の失笑とともにスタートしていた。その時父の手はぷるぷると震えていたそうだ。動画の中で、出産直後の母に「お疲れ様。」と声を掛けた父は、助産師さんに「お疲れ様では無くこれから始まるんですよ。」と一言いただいていた。生まれたばかりの私は母の胸元に乗せられたのだが、父が「あ!」と声をあげた後、間抜けな声で「へへっ。」と笑った。どうも母の胸元でどういうわけか私は突然おしっこを
してしまったらしい。こういう所を父は見逃さない。いて欲しい時にはいないくせにいなくていい時にはしっかりいるのだ。
よくよく考えてみると父は、タイミングが悪い人間にもかかわらず私と妹の生まれる時にはちゃんと居合わせていた。ということは、父なりに相当頑張って間に合わせたのだろう。父は、家族の非常時にはどんな時間でも、どんな天気でも、遠い場所からでも駆けつけていたのだ。まるでスーパーヒーローみたいじゃないか。私も親になった時、そんな父を見習いたいと思っている。面と向かって言うのも恥ずかしいので、テレビを見てあの日と同じように間抜けな声で「へへっ。」と笑っている父の背中に、そっと「パパ、いつもありがとう。」と念を送っておいた。
吉井 咲喜(13) 群馬県
昔からお父さんはだらしがない。朝は私やお母さんよりもずいぶんと後に起きてくる。そのくせに「おはよう!」と元気な調子だ。
お父さんは散らかし屋だ。自分の部屋はおろかみんなのいる場所、リビングだってお父さんがいる隅っこは何が置いてあるのか、私にはゴミの山のように見える。お母さんに
「かたづけて!」
と言われても
「いやぁ、ごめんねえ。」
と愛想よくどこ吹く風だ。
私はお父さんと違って剣道部や塾、学校の課題もあり忙しい毎日だ。お母さんだって仕事をしながら料理に洗濯もこなしている。でも、お父さんは仕事に行って帰ってくればゴロゴロしていることがおおい。休みの日だってお母さんは買い物や映画館へ連れて行ってくれるけど、お父さんは決まって
「留守番をしているから。」
と庭の芝刈りをしているくらいだ。
私は中学生になり、あまりお父さんと話す機会が減ったと思う。というよりも、わざと話す機会を減らしたというほうが正しいかもしれない。
おじさんになってきたお父さんは少しめんどくさいところがある。お母さんとの会話のようにすんなりいかないのだ。だから私は『行ってきます』や『ただいま』のあいさつすらあまりしなくなった。
そんなあいさつをしない日が続いたある日、めずらしくお父さんが
「おかえり、ちょっといいかい?」
と部活帰りの私に寄って来た。
お父さんは
「あいさつには意味がある。」
と、いつにもなくまじめな顔をしている。
「行ってきますは必ず戻るの意味があるし、ただいまには予定通り帰れましたの意味があるんだよ。」
と言うのだ。続けて
「だから他の何をしなくてもいい。あいさつはしっかりしなさい。」
と言い終え、奥の部屋にいなくなった。
あいさつには本当にそんな意味があるのかわからなかったが、ふとあの日の事を思い出した。
私が友達と遊びに出掛けて、約束した帰宅時間よりずいぶん遅くなった夜、お父さんは庭に出てうろうろと歩いて待っていたのだ。帰宅した私に、
「おかえり。」
一言だけ言うと、お父さんは家に入ってしまった。お母さんは
「大丈夫か?連絡はきたか?なんて、ずっとお父さんは心配していたんだよ。」
と話していた。
お父さんにとってあいさつは大切なコミュニケーションなんだとわかった。
私は『あいさつ』そのものの意味が気になり調べてみると、有難うやお早う、御免なさい、済みませんにもしっかりと意味や由来がある事が分かった。
あいさつの大切さを教えてくれたおとうさん。ちょっと見直した私はその日以来、小さい声ながらも欠かすことなく必ず『行ってきます』『ただいま』のあいさつをしている。なんとなく恥ずかしさもある。しかし、お父さんはうれしそうだ。
「いってらっしゃい!」
と朝から大きな声だが、悪い気はしない。
お父さんはいつも通りお母さんに注意されたり何か言われているけれど、さすがはあいさつ名人だ。うまいやりとりをするもんだなあと自分のお父さんながら感心している。裏技でもあれば今度お父さんに教えてもらおう。
来住 裕志(61) 東京都
電話のベルがけたたましく鳴った。小6の僕は、自室から居間へ素早く移動し受話器をあげた。チラッと柱時計に目をやる。午前2時過ぎであった。一瞬の静寂…。腹に一物、相手が言葉を発するや否や、『今、何時やと思っとんねん。丑三つ時や。失礼やろ…。』ガチャ!当然のように切ってやった。とその刹那、両親が珍しく寝室からすっ飛んできた。母の後ろ側にいる父は、手持ち無沙汰に上気した頬をゆっくりと撫で回していた。早々、『何で切ってしまったの?大事な用件で、ずっとその電話を待っていたのよ!』といつもはおっとり気味の母が気色ばんだ。正しいことをしたと思っている僕は、もう、びっくりである。
ある疑問が頭をよぎる。こんな真夜中に電話をしてきても許される職業とは?誤解を恐れず言えば、はぐれ者、芸人、夜のお仕事、広告関連、報道・テレビ局関係者。はっ、もしかして?結果、その「もしかして?」が大正解であった。
僕は、両親に『ごめん。』ペコリと頭を下げ、逃げるように自室に戻りふて寝した。その後の顛末は、聞く気にもなれず、永い時間が経過した。父が亡くなり迎えた通夜の晩、母にあの丑三つ時の無礼な電話の真相について聞いたのだが、驚くべきことが判明した。
あの電話の主は、やはり報道関係者だった。昭和49年3月、フィリピン・ルバング島から帰還した〇元少尉に日本中が熱狂した。僕の父も〇氏と同じ陸軍士官学校出身。同方面への派遣で隣の小隊長(少尉)同士であった。そして、件の迷惑なベル音は、彼の帰還に対するコメントを求める新聞記者からの取材電話だったのだ。取材を受けた父は、その後、東京で開催された「〇氏の帰還を祝う会」にも参加した。そして、これを機に、彼に内在した「本当の意味での戦後」とようやく訣別することができたと母から聞かされた。形はどうあれ、稚拙な僕は、そんな父の崇高な幕引きの儀式の出鼻をくじいてしまったのだ。『おやじ、本当にごめんよ。おかげで僕も平和への願いや命を賭して守るべき家族について、改めて考えることができたよ。ありがとう。』ただ、この時ばかりは真摯に反省した。
どちらかと言えば、戦記物を好んで鑑賞していた父に、まさかそんな過去があったなんて?ただ優しい父からは、その片鱗すらうかがい知れなかったので、心底驚いた。
思い返せば、「○○小隊長殿、やっとお見つけしました。お元気であらせられましたでしょうか?」と、文面からも分かるほど、恐縮しきりのお年賀が届いたことがあったよな。
父の墓前で手を合わせながらそっと目を閉じる。瞼の裏に顔をくしゃくしゃにしたお茶目な笑顔が、シャワーのように降ってくる。父が大好きだったヴィック・モロー主演、「コンバット!」のテーマ曲がどこからともなく、やわらかな風に運ばれ聞こえてきた。
鈴木 恵美(58) 宮城県
今から四十年以上も前、父が亡くなる直前、麻痺のある体で一時帰宅した時のことだ。
私の中で些細なことが積もってしまい、久しぶりに帰ってきた父と衝突してしまった。「子どもに無関心」な父が怒っているのだから、どうにもこうにも面白くない。
(父さんは私がかわいくないんだわ)
母が様子を察し、気を遣って私を呼ぶ。
「恵美、ご飯の用意、手伝って?」
「食べないから手伝わない」
「どうして?今日は栗ご飯よ」
「要らない。私のことはほっといて」
父と夕飯をいっしょに食べるどころか、家族と同じ空間に居ることさえはばかられる。
そんな私の傍らで、難からうまく逃れた妹が白々しく和歌を詠み始めた。
「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ」
どうやら妹は「栗」に反応したらしい。
「えっ、急に何言ってるの?」
「ほら、今テレビでやってる。憶良っていう人の歌らしいけど、お姉分かる?野菜の、あのネバネバしたオクラじゃないよ」
「私だって知っているわ。『瓜を食べれば子どもにも食べさせてあげたいと子どものことが思われる。栗を食べればまして偲ばれる』っていう歌でしょう」
山上憶良が愛するわが子を想って詠んだ歌ってことぐらい知っているわ。読書好きの私は万葉集の本を読んだばかり。その時にうちの父とは真逆であろう憶良に衝撃を受けたので、この和歌は印象に残っていたのだ。
「お姉、意外と分かっているのね」
「当たり前じゃない!」
私は横目で妹をにらんだ。
「おぉ、怖い怖い。お母さん、助けて?」
お調子者の妹が母の元に逃げていった。
気の障る物の言い方をする妹に腹が立ちながらも、ずっと頭の片隅で考えている。私の目の前にいる、かつては仕事人間だった父。そんな父は憶良ほどではないにせよ、子を愛せる父親なのだろうか、と。
「ねえ、父さんって何かを食べて私を思い出すことあるの?」
「ん……」
父は厳しい表情を崩し、顔を緩めてテレビ画面を指さした。
「銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも」
画面にはタイミングよく憶良のこの歌。子は宝だと思うのは憶良だけではなく、どんな親も同じと言いたいらしい。
たたでさえ元からロ下手なのに、言語障害もある身。だったら元気なうちに、たまには憶良のようにはっきり愛情表現してくれていたらいいのに。不満と悲しさでロをつぐんでいると、母が父の気持ちを代弁するようこう言った。
「どんな宝石も子どもにはかなわないわ。親にとって、子どもに勝る宝ものはないもの」
すかさず父が聞き取りにくい声で、必死にボソボソッ言う。
「うちの宝、ニつ」
当時は父が本当に素っ気なく、愛されている実感がなかったが、この一件で私の悶々とした気持ちが一掃。心にさわやかな風が吹き抜けた。父が最期に「私は父の宝物」というメッセージを残してくれたことで、私はこの先強く生きていく決心ができたのだ。
親子としては短い時間だったけど、一生懸命働いて私たちを育ててくれてありがとう。
あの時の父への溢れんばかりの感謝の気持ち。四十年以上経った今も色褪せることなく私の心にしっかり刻み込まれている。
2023年入賞作品
「ととのこと」藤本 千尋(6)愛知県
「父のつけ足し」小松﨑 有美(38)埼玉県
「お父さんのうそ」野入 桃子(9)福岡県
「パパはプリキュア」國吉 桃美(5)青森県
「父の不思議パワー」大平 真由美(42)東京都
「父と満月」今尾 僚子(46)千葉県
「おとうさんのつむじ」栗原 佑奈(5)神奈川県
藤本 千尋(6) 愛知県
ととは、たまにかかになります。スカートははきません。じょりじょりのひげもきえません。でも、ごはんをつくってくれたり、おせんたくをしたり、ちょっとへたくそだけど、ゼッケンとかをつけてくれようとします。
かかはたいいんしてからも、すぐつかれちゃいます。だから、かかがたいへんなときは、ととがかかにへんしんします。小がっこうのはじめてのさんかん日も、ととがきました。みんなはおかあさんだったけど、ととはいつもこうえんでみんなとあそんでいるので、
「あ、ちいちゃんのおとうさんだ!」
とだいにんきでした。みんなによばれて、ととはたのしそうでした。わたしは、いつもいっぱいあそんでくれるととがだいすきなので、うれしいきもちになりました。
おおきくなったら、ととといっしょにおふろにはいれません。じゅぎょうがいっぱいになったら、いっしょにあそぶじかんがへるかもしれません。おおきくなるのはうれしいけれど、それはちょっと、さみしいです。わたしがおとなになったら、ととはおじさんか、おじいちゃんです。でも、わたしがこどもをうんだら、わたしとあそんでくれたみたいに、いっぱいあそんでくれるとおもいます。いつまでも、じまんのととでいてほしいから、ずっとげんきでいてくれるように、まいにちニコニコたのしいはなしをしてあげます。そうしたら、まいにちたのしみで、げんきがでるでしょ。とと、ずっとだいすきだよ。
小松﨑 有美(38) 埼玉県
バカという言葉が一番嫌いな父。そんな私もまたその言葉に悩まされた。三年生なのにひらがなが読めず、九九が言えない。そんな状況からついたあだ名はバカボン。バカ殿なんて言われたこともあったような。いま思うと発達障害だったのかもしれない。読み、書き、計算。どれをとっても人より遅く、クラスから置いてけぼりを食らった。
だけど父は私に人一倍やさしかった。漢字が書けなくても『ににんがに』になっても、絶対に責めなかった。それどころか優しく教えてくれた。だから父の前では唯一『バカ』を忘れられた。私はこのままでいい。いいんだ。そう信じることができた。
しかし、事件は起きた。あれは父親参観日。その日は図工で描いた父の似顔絵が展示された。どの作品も心の込もったものばかり。しかし私のを見るなり目を疑った。なぜか似顔絵に『バカ』と書いてある。こんなことを一体誰が。私は怒りで震え、悔しさでさらに震えた。すぐに先生がやって来て「こんなことをする人は誰ですか」という犯人探しが始まった。私は『バカ』と書かれた悔しさより、それを父が見てしまう焦りの方が強かった。
来ないで、父さん。
止まって、時間。
泣くな、わたし。
消えろ、落書き。
先生は私だけを呼び出し、この絵を取り外してもいいかと尋ねた。描き直す時間はもうない。私は絵を見つめながら、しばらく考えた。
父は似顔絵が展示されるのを知っている。だから……。
父は私が居残りをして描いていたことも知っている。だから……。
何より父はこの日を楽しみにしていた。だから……。
「そのまま飾って下さい」
先生は目を丸くして「本当に」という表情を見せた。それも無理はない。『バカ』の字は画用紙の中央に書かれ、修正はおろか、消すことすらできない。それでも私の絵だけなかったら父はきっと悲しむと思った。
「どんな絵を描いたかじゃないよ。どんな気持ちで描いたかだよ」と言う父に、やっぱり絵を見せたかった。
父は教室に入るなり、事情を聞いた。似顔絵も見た。落書きにも気づいた。だけど何も言わず、すぐにペンを取り出して、『親』とつけ足した。たちまち『バカ』は『親バカ』に。私への中傷は、私への愛情に、書き換わった。
うちの娘にバカなんて言うなよ。かわいい娘だぞ。バカなんて許さないぞ。
『親バカ』の字に込められた父の叫びが聞こえた気がした。
あれから何十年も経つが帰省のたびに父は「孫も娘もかわいいなあ」と目尻を下げる。そんな父を見て、親の愛に勝るものはないと感じる。長年いじめに遭ってきたなら、尚更。
今なら言える気がする。
私を守り、愛してくれた父に。
「お父さん。私も『バカ』は嫌いだよ。こんなひどい言葉は大嫌い。でもね、親バカなお父さんは大好きだよ!」
野入 桃子(9) 福岡県
お父さんの額には傷がある。お父さんが子どもの時に、けんじゅうでうたれた傷なのだそうだ。もう五十年以上も前の話らしい。
「うそ。絶対うそだよ。」
そのことを友達に話したら、私はうそつきになってしまった。
「うそじゃないよ!お父さんに聞いたもん。」
言い合いになっても一歩も引かなかった。だって私はうそつきじゃないし、これはお父さんから聞いた話だったからうその訳がない。
仕事から帰ってきたお父さんに、友達との出来事を話した。
「えっ?話したの?これは水ぼうそうのあとだよ。」
私はショックだった。本当だと思っていた話がうそだったなんて。うそだってことが本当はうそみたい。うそと本当で、なんだか頭がクラクラしてきた。私は思わず泣き出してしまった。私がうそをつくつもりはなくても、結果的に友達にうそをついてしまったことになったのがくやしかったからだ。
「ごめん!じょうだんだったんだよ!」
お父さんは私に何度もあやまった。
うそって何だろう。私は考えた。うそとじょうだんは何がちがうのだろう。国語辞典で調べてみた。うそは、真実ではないことを本当のように言うこと。じょうだんは、遊びで言う言葉、ふざけた内容の話。なるほど、たしかにお父さんの話はふざけている。
自分が本当だと思って話したことが、本当はうそだった場合、私はうそをついたことになるのだろうか。難しくてわからなくなってきたので、お母さんと話し合ってみた。世の中には、いろんな話や様々な情報がある。それらを見たり聞いたりして、それが本当に信じていいことなのか、そうでないのかを考えて決めるのは自分自身だ。その決断を間違えてしまわないように、様々なことを勉強してたくさんの経験をすることが大切なのだとわかった。
次の日の朝、お父さんが仕事に行く時「おみやげに桃ちゃんの好きなおかしを買って帰るね」と言って出かけて行った。腹が立っていたので私は返事をしなかった。お父さんは、きっと本当におかしを買って帰ってくるだろう。けれどもしばらくは、お父さんの言うことは信じないと私は心に決めている。
お父さんはくだらないうそばかりついて、いつも私をからかう。ふざけてばかりのお父さんが、真面目なお母さんと結婚できたのは、きせきだと思う。少しいじわるを言いたくなって、そうお父さんに伝えたのに、お父さんはうれしそうに笑って言った。
「桃ちゃんが産まれて来てくれたことが、パパの人生で一番のきせきだよ。」
お父さんはじょうだんばかり言うけれど、この言葉は信じてあげよう。
國吉 桃美(5) 青森県
「パパいってらっしゃーい」
パパがたたかいにむかった。きょうもわたしのパパはてきとたたかう。てきは、とても強い。いま、ちきゅうのみんなもたたかっているてきだ。
わたしのパパは、しょうにかのおいしゃさん。まいにちびょうきやけがの子どもたちのちりょうをしている。いま、一ばんのきょうてきは、コロナウイルス。
パパは、どんなにたいへんでも、くじけない。うちゅうひこうしみたいなぼうごふくにへんしんしてかんぜんぼうびで立ちむかう。なつのあつい日は、あせがいっぱいでてたいへんっていってた。
パパは、じぶんがコロナウイルスにかんせんしても、こういしょうでくるしくても、がんばりつづける。まるで、わたしの大すきなプリキュアみたい。
プリキュアは、へいわをまもるみんなのヒーロー。どんなにてきが強くても、あきらめない。
パパは、いつもおしごとでいそがしいけどおうちに帰ってくると、わたしとあそんでくれる。プリキュアのとくいわざをいっしょにしてくれる。うたはちょっぴりおんちだけど、おどりをノリノリでおどるしおもしろい。
パパとあそんでいるときに、びょういんからでんわがきてきゅうにおしごとにいくときもある。ほんとうはもっといっしょにあそびたかったのに。
でも、プリキュアもわるいてきがきたら、どんなときでもとんでいく。パパはプリキュアとおんなじなんだね。みんなのためにがんばっているんだね。わたしはパパにいっぱいあまえたかったけど、がまんしたよ。
わたしは、プリキュアみたいなパパが大すき。たくさんの人をすくうために、いっしょうけんめいなプリキュアが大すき。
パパ、わたしね、七夕のねがいごと、たんざくにかいたよ。
「プリキュアになりたい。」って。
大平 真由美(42) 東京都
私の父は見た目が怖い。目つきも鋭く、声も低くて大きい。サングラスなんてかけてしまうと、近寄らない方が良さそうな、かなり怖いおじさんになる。
そんな見た目の父だが、私にとって、小さい頃からとても優しくて、尊い存在だった。
父は無口で謙虚な性格なので、自分から自分のことを話すことはほぼなかった。しかし、
「お父さんは頭の回転も早くてスポーツも何でも出来るから、会社の人や友達とかみんなに信頼されてるんよ。」
と母が口グセのように言っていたこともあり、父は何でも出来るスーパーマンのように思えていた。
確かに、スーパーマンではないが、父にはすごく不思議なパワーがある。
私は小学生の時、算数が苦手で、授業中に先生が説明してくれる内容だけでは、全く理解出来ていなかった。しかし、家に帰って父に説明してもらうと、魔法の言葉なのかと思うくらいに、頭にすんなり算数の公式が入ってきて、なぜかスラスラ問題が解けるようになるのだ。スポーツでも器械体操でつまづいた時、コーチ経験があるのではないかと思えるほどの的確なアドバイスをくれ、全ての体力テストを合格へと導いてくれた。跳び箱の練習の時には、家で布団が幾重にも重ねられ、布団が高くて柔らかい遊具のような跳び箱に変身したので、楽しく遊んだという記憶しかない。そして今でも父のパワーは続いており、私の子供達もその恩恵を授かっている。全く出来なかったことが、父に一度教わっただけで克服出来てしまうのだ。何度も私と練習したのに乗れなかった自転車も、父とのたった一日の練習で、補助輪なしでスイスイ乗れるようになったり、怖くて大嫌いだった鉄棒も、あっという間に逆上がりまで出来るようになって「鉄棒大好き」と言わせてしまうほどになっていた。オムツ外れが進まなかった末っ子は、父とトイレに行ってどんな約束をしたのだろう、数日でパンツマンになっていた。
父の不思議パワーは、もう一つある。
本能で行動する動物や、直感で動くような小さな子供達に、父はやたらと好かれるのだ。
犬も、飼い主の私よりなぜか父にばかり懐いていたし、他の動物も不思議なことに父の方へ近付いて父から離れないのだ。
私が可愛がって大事に育てていたインコも、父が指を差し出した時だけ、毛をフワフワに逆立たせて喜びを表現し、歌っているかのように父の指に向かっておしゃべりし始めるのだ。父は、動物達にとってまるでムツゴロウさんのような存在なのだろうか。
初めて会った子供達もなぜだろう、あたかも父と今までお友達だったかのように、父に近づいて話しかけてくる。
見た目は怖そうだけど、父の人柄が動物や子供達を引きつけるのだろう。
私の子供達はもちろん、父が大好きで、父の隣に誰が座るかという理由の喧嘩が頻繁に起こる。いつも私の事が大好きで、私から離れようとしない末っ子でさえ、私の事が視界に入っているのかも分からないくらいだ。
そんな不思議パワーを持つ父を、今も私は心から尊敬している。きっとこのパワーは、父の優しさの表れなんだと思う。コロナが流行してから持病がある父と会えない日が続く中、母から箱いっぱいの果物が毎月届く。私は、まだあるから大丈夫だよと伝えようと母に電話をした。すると母は、
「お父さんがあなた達に食べさせたいんだって。コロナで手伝いにも行ってあげられないから、美味しい物を早く送ってやれってうるさいんよ。お父さん、子供達だけじゃなく、あなたにもちゃんと食べさせられるようにっていっぱい買ってたよ。」
と教えてくれた。
こんなにあって食べきれるかな。
箱いっぱいの果物を見て、あふれんばかりの愛情を感じ涙がこぼれた。
『お父さん、ありがとう。
遠く離れていてなかなか会うことが出来ないけれど、お父さんパワーのおかげで、子供たちも元気にすくすく育っているよ。
子供達と一緒に、私も沢山果物食べるね。』
果物から父の不思議パワーをもらった気分だ。
今尾 僚子(46) 千葉県
父が事故で亡くなった時、みんな心から悲しんだが、誰も「○○をさせてあげたかったね」とは言わなかった。父はマイペースで、やりたいことは何でも実現する人だったからだ。
商社に勤めていたため、海外へ単身赴任している時期が長かった。
私が高校生だったある年、12月上旬に帰国した。大きなトランクと中くらいのトランクと、小さなボストンを一つ持って。
家に入るなり、中くらいのトランクを開けると、玉手箱のようにぎっしりとお土産が入っていた。今年はきっと、クリスマスとお正月を家族と過ごすために早めに帰国したのだろうと、心が温かくなった。
久しぶりに父が毎日いて、夕食のおかずがいつもより二品多い日々が続いた。
12月24日の朝に、父が「じゃあ行ってくるね!」と言った。どこへ?
父は、一人でマレーシアのセブ島にダイビングに行き、クリスマスとお正月を含む2週間を島で迎えるのだという。そう、開かれなかった一番大きなトランクには、ウェットスーツやボンベが入っていたのだ。
白けた気持ちで手を振る私に、父はとびっきりの笑顔で振り返した。そういう人だった。
数年おきに、日本と海外が交互に勤務場所になった。赴任先は計7か国に及んだが、父はどの国に行ってもその国の言葉が話せるようになって帰ってきた。
赴任中、印象的に覚えているのは、現地の家庭教師を雇い、熱心に勉強する姿だ。仕事のあと、平日は毎日のように机に向かい、英語と現地語のちゃんぽんで家庭教師と真剣に話し込む。
その後ろ姿は、勉強は子供だけのものでも、やらされるものでもないこと、努力の先には実りがあることを教えてくれた。
同調圧力にも負けない人だった。
30年前の、長時間残業が美徳のような時代に、週2回は家族との夕食に間に合う時間に帰ってきた。同僚は毎日深夜まで仕事をしていて、早く帰っているのは父だけだと聞き、心配した私たちに父は言った。
「仕事を終える時間から逆算すると、自然と優先順位とかけていい時間が決まってくる。通勤中に段取りを考えて無駄なくやってるから、週2日位早く帰っても仕事は終わるんだよ。時間は作るものだよ。」
そんな父だから、仕事自体の評価は高かったようだが、さほど出世しなかった。
定年退職してからは、週3日は朝7時から原付でテニスに行き、英会話サークルの先生などもしていたが、その毎日にも飽きたのか、青年海外協力隊のシニア版である「海外シニアボランティア」に応募し、アフリカのチュニジアに赴任した。
日本企業誘致のための支援業務を担当するとのことで、チュニジアの外務省に毎日通勤し、時にはチュニジア側の代理人として、海外工場の設置を検討している全国の日本企業の担当者と話したり、充実した毎日を楽しく過ごした。
率直で粘り強い父は、チュニジア政府から厚い信頼を受けたようで、シニアボランティアは1期で交代するのが規則なのに、外務大臣からの強い続投要請を受けて特例でもう1期務めるのだと、父は嬉しそうに語った。
チュニジアからの“出国”で帰国して、久しぶりに家族揃って夕食を食べた。
日本にいる間は、仕事に差し支えない金曜と土曜だけ晩酌をするのが父の習慣で、その横でおつまみを横取りしながら他愛のない話をするのが私の習慣だった。
テレビでは藤原道長の特集をしていて、かの有名な「この世をば我が世とぞ思う望月の 欠けたることもなしと思えば」という和歌の紹介をしていた。
画面いっぱいの、煌々と輝く満月。
父が言った。「パパも今まさに満月みたいな気持ちなんだよね。やりがいのある仕事があり、信頼できる仲間がいて、愛する家族がいる。いい人生だったと思う。」
私は胸を突かれて、わざと横目で言った。「天下人になぞらえるとは、ちょっとおこがましすぎない?」父は大笑いして、私の頭を撫でた。
その1週間後、父は事故にあった。駅の階段を駆け下りて、足を滑らせたのだという。初孫の出産予定日だったから、生まれたという連絡を楽しみに、家路を急ぎ過ぎたのかもしれない。
電話を受けて、現実味のない中で向かった病院で、父の意識は戻らなかった。父の手は、乾いていてごつごつと硬くて、何も変わらないのに、もう私の頭を撫でてはくれない。
私は、あれは本人すら気づいていない遺言だったのかもしれない、と思った。
私たち家族は、父が不在の状態に慣れていたから、日々のルーティンが変わったりはしなかった。ただ思った、いつか帰ってくる不在と、もう帰ってこない不在とでは、こんなにも感じ方が違うのかと。
それでも父の満月は、亡くなるには早すぎたと嘆く私たちを慰めてくれた。
それから10年余が経った。弟や私の子供たちは誰も「おじいちゃん」と会ったことはないが、「きっとおじいちゃんなら○○って言うよね」と話す。
弟の仕事への取組み方、物事への捉え方に、確かに父を感じる。
そして今夜も光る満月が、子供を寝かしつけた後に勉強する私を見守っている。
栗原 佑奈(5) 神奈川県
わたしのおとうさんはかっこよくて、おもしろいです。おとうさんのすきなところは、ふさふさのあたまのてっぺんです。いつも、だっこやおんぶやかたぐるまをしてくれるときにみています。わたしはおとうさんのつむじをさわるのがすきです。つむじはざらざらしていてきもちがいいです。
おとうさんは、まいにちうでたてふせをしています。しごとでつかれているひでも、まいにちつづけてがんばっています。おとうさんに、どうしてうでたてふせをしているのかきいてみたら、わたしがしょうがくせいになってもだっこできるようにうでをきたえているのだそうです。
うれしいな。ありがとう。わたしが90さいになってもだっこしてください。いつもだっこしてくれてありがとう。おとうさんのだっことつむじがだいすきです。
2022年入賞作品
「パパとヤモリとぼく」西浦 星成(5)徳島県
「私の父」岸本 一花(17)愛知県
「大空と太陽」青野 敏子(33)東京都
「父が示した生き方」井口 泰子(70)神奈川県
「私のお父さん、永遠に」三宮 和子(21)神奈川県
「走る」石本 恵里香(29)福岡県
「僕の大事なパパ」朝見 煌仁(8)神奈川県
「父の知らない時間」吉田 朝美(21)大阪府
西浦 星成(5) 徳島県
ぼくのパパはとってもやさしいよ。ヤモリがすきなぼく。よるになるとパパとのヤモリさがしがはじまる。パパはどんなにつかれていても、あめのひいがいはぜったいいってくれるんだ。かいちゅうでんとうをにぎりしめて、しろいかべをつぎからつぎにてらしていく。
あるひ、かべのたかいところにかわいいヤモリがいたよ。パパはいえからながいながいはしごをもってきた。
「パパがんばって。」
ぼくはおうえんする。パパはくらいよるのなかはしごをのぼる。
「やったあ。もうとれる。」
ぼくがそういったとき、パパのうごきがとまった。
「パパ、ヤモリさわれんのわすれとった。」
パパがさけんだ。パパはヤモリをさわれない。さわれないけど、ぼくがヤモリをすきだからいっしょうけんめいさがしてくれていたんだよ。ヤモリはどこかにいっちゃった。でもぼくはかなしくなかったよ。だってね、パパとのヤモリさがしはとってもたのしいから。あしたもあさってもそのつぎもパパとのヤモリさがしはおわらない。パパいつもありがとう。
岸本 一花(17) 愛知県
私は父が好きである。
どれくらい好きかと言うと、父が好きなところについて本が数冊書けてしまうくらいである。
父の好い所を挙げたらキリがない。
布団を被らずに寝てしまったときに布団をかけてくれるところ。麦茶が無くなりそうになったら沸かしておいてくれるところ。それから、おひるごはんが素麺のときに庭から大葉を摘んできて切ってくれるところも。
それから・・・。
父は天然である。
病院に連れて行ってもらったときには、診察用紙に「痛」の文字が書けなくて結局私が書いたし、彩り(いろどり)寿司を「あやりずし」と読んでいた。
従姉妹の結婚式で素晴らしいスピーチをしていた禿げているおじさんがいた。スピーチの後に父は
「いやあー!さっきのスピーチ良かったですー!」
と話しかけに行った。違う禿げている人に。そんな父の額は光っている。
この前は「この世界の片隅に」を「この片隅の隅に」と言っていた。どれだけ隅に行くんだよ。すみっコぐらしかよ。
父は寡黙である。
寡黙なおかげか「こだわりが強い人風」に見えるが実際はそんなことはない。
コーヒーは豆から挽きます、みたいな顔をしているが、毎朝インスタントの安いやつで済ませている。
そんな父はお酒を飲んではじめて普通の人と同じくらい喋るようになる。といってもそれはとても珍しいことで月に一回あるか無いか程度だ。
出来上がっている父は非常に珍しい。よく笑うし、面白いことも言う。たまにしつこく絡んでくるが、私はそんな父も新鮮で嫌いではない。
酒はたまに飲むがタバコは吸っていない。厳密に言うと前までは吸っていた。健康に良くないのとお金がかかるから辞めて欲しいと思う反面、たばこを吸っている父をかっこいいと思う気持ちもあった。
ちびまる子ちゃんの話にまるちゃんがタバコを吸う父ヒロシのために灰皿を作るという話がある。まるちゃんがヒロシのことをかっこいいと思うように、私もまた父のことをかっこいいと思っていたのだ。
そしてこれは喫煙者がみんな、だとかタバコの銘柄が関係しているという訳ではない。
父だから当時百九十円の「わかば」でもかっこよく見えたのだ。
当時小学生だった私は体に悪いとわかっていたけれどタバコを吸っている父のそばによく行って、学校であった話などを一方的にしたものだ。父は寡黙な代わりに聞き上手なのだ。そんな訳で禁煙することになったときは嬉しい気持ちと寂しい気持ちが入り交じった。
そして何より、父といると安心する。
父は平日休みで、学校が終わって帰ると父がいる日がある。
特に何かする訳では無い。でも、無性に嬉しくなる。
私が不登校になったとき、何もかもが信じられなくなってみんなが敵だと思っていたとき、父はなにも言わなかった。その代わりに私を優しく抱きしめてくれた。愛情を伝えるのに言葉なんて要らなかった。
私は父に愛されているのだと分かった。
十七の娘がこんなにも父を愛しているのは、父も私を愛してくれているからである。
素敵な父からの愛情を存分に受けて育った私は本当に幸せだと思う。
この作文も所謂父へのラブレターだと思う。恥ずかしいからとても見せられないが。
そんな父も定年まであと二年である。あんなにかっこいい五十八歳は多分、父とジョニー・デップしかいない。
この前母に
「結婚相手を見つけるならパパよりも素敵な人じゃないと認めないからね。」
と言われたが、恐らく一生見つからないだろう。今のところジョニーデップと結婚するしか策はない。
もちろん父とは結婚できないので本屋やスーパーに二人で出かけるときに助手席に座って束の間のデート気分を味わうことにしている。
思い出した。車を発車するときにいつも
「出発するよ?いい?」
と確認してくれるところも好きである。
こんな風に友達などに言うと大半が苦笑いして
「素敵なお父さんで良かったね。」
と苦し紛れに言葉を紡ぐ。無理はない。
今こうやって文章を書いていて自分で自分に引いている節があるからだ。
しかし、こんなに父の良いところを知っているのは私と母だけだ。
どれか一つについて書くなんてとてもできない。全部大好きなのだ。
これからも父というかけがえのない存在を大切にしていきたいし、父の大好きなところをもっと見つけていきたいと思う。
青野 敏子(33) 東京都
小学生の頃、私は顔が大きくてお父さんにそっくりなことが嫌で、お母さんに「なんでもっとハンサムな人と結婚しなかったの!?」と怒ったことがありました。お母さんは、
「そうだよね、きっと大きくなったらわかるわよ。」と微笑みました。
「分かるわけない。」そう思って過ごしてきました。
中学の頃は、お父さんと同じ空間にいることも嫌で舌打ちしたり「キモイ」と暴言を吐いていた私に「ははははは!」と大笑いされ逆にイライラしました。
高校一年生の夏、一晩で髪を金色に染め、ピアスをあけた私に父は、いつもと全く変わらない反応で「そうかそうか」と笑っていましたが、感想くらい言ってよと、怒りを逆なでされました。
大学入学に際して一人暮らしをしたいと懇願したときは、お母さんには反対されたけれど、お父さんは少し考えてから「自分で決めたことなら頑張ってね!」と送り出してくれました。
私が仕事に忙殺され、うっかりどこかに自転車を置いてきて無くしてしまったことがありました。その時、激怒するお母さんの横でお父さんは「地球上のどこかにあるはずだから大丈夫だよ。」とにっこり言いました。
私は結婚して母になりました。そこで気がついたことがあります。太陽のようなお母さんのお陰で家族が成り立っていると思っていたけれど、それは少し違っていたようです。お父さんという「大空」があって初めて、太陽のように明るいお母さんも私達こどもも平和に過ごせるのだと思います。そして今、私はお父さんにとても良く似た旦那さんの
「大空」のもとで明るく過ごすことができています。私のお父さんでいてくれてありがとうございます。お父さんそっくりの自分の顔も大好きです。
井口 泰子(70) 神奈川県
父が九十四歳で亡くなって、二年になる。
父は八十七歳の時、癌になり、少しずつ体が弱っていった。しかし、杖をつき、敢えて外に出た。足腰を鍛えたかったのだ。外に出て、自分に刺激を与えたかったのだ。体は九十度に曲がっていたが、小さい歩幅で脇目も振らずに歩いた。やせ細った小さい体で、睨むように前を向き、人を寄せ付けない厳しさが、体中を貫いていた。
ある日、父と歩いていると、車が止まり、
「お送りしましょうか。」
と言ってくれた人がいた。父と私は、
「歩く練習をしているので」と丁寧に断った。
厚意に対しては礼を尽くす父であったが、この時は複雑だった。前向きに取り組んでいるのに、弱々しい老人に見られたことが、悔しかったのだ。
癌と闘いながらも、父は、新聞を丹念に読み、時には俳句・川柳を投稿した。掲載されると、本当に嬉しそうだった。好きということもあったが、句作を続けることが、自分を律することに繋がると考えていた。
九十歳を過ぎると、父は以前にも増して自分を鼓舞するようになった。
「がんばるしかない。諦めたら、そこで終わりだ。」
「一センチでも一ミリでもいい。前に進め。」
何度も声に出して、自分に言い聞かせていた。会社員時代のように、自分を奮い立たせていたのだ。私は、父の真剣さに度肝を抜かれた。
癌・老いに負けたくない。僅かでも前に進もうと必死だった。敵は、弱音を吐く父自身であった。自分を鼓舞しなければ、受け身の生活になってしまう。たった一歩の譲歩が、それまで積み上げたものを、駄目にしてしまうことを、父は、分かっていた。
亡くなる半年程前から、着替えに時間が掛かるようになった。しかし家族の手を借りず、一時間近く早く起き、自分で着替えた。私は、父の意思の強さに圧倒された。
ベッドにいる時間が増えても、家族の一人ひとりの動きをよく見ていた。そして言うべきことは、厳然たる態度で家族に伝えた。感謝を言うことはあっても、卑屈になることはなかった。
父は最期まで自分の生き方を貫いた。身を以て、私に生き方を示してくれた。凛とした人生だった。
私が、八十歳・九十歳になった時、父のように生きるのは、容易ではない。でも、それは、私の義務だと思う。なぜなら、父の深い思いを全く理解せず、冷たく接した時が少なくなかったからだ。父の悲しい眼差しが忘れられない。しかし、父は、長い目で私を見守ってくれた。信じてくれた。父に心底、謝りたい。
私の残りの人生を、父のように生きると心に決めた。人に頼らず、自分を叱咤激励して生きる。自分を絶対に諦めない。私にとって、これ以上も、これ以外の人生もあり得ない。私にできる、父への最後の詫びであり、感謝である。
父は、私の命の中にいる。
三宮 和子(21) 神奈川県
今まで出会った人の中でいちばんやさしい人。料理がとっても上手な人。意外と背が高くて私とちょっと顔が似てるかっこいい人。雑学をたくさん知っている人。カメラを向けると変顔しかしない人。典型的な親父ギャグで私を笑わしてくれる人。野球が好きな人。洗濯物をたたむのが上手な人。これが、私の知っている、私のお父さんです。
お父さんは仕事人間で、私が小さいときからたまにしか家に帰ってこなくて、一年に一・二回くらい一緒に遊びに行ける、私が心待ちにする日がありました。私が成長するにつれてその機会もどんどん減っていき、いつのまにか家ではお父さんの姿を見かけなくなりました。それでも私は、たとえ離れていても、お父さんはお母さんのこと、お母さんはお父さんのこと、ずっとずっと大好きなことは永遠に変わらないと信じていました。
でも、私は末っ子だったのもあったのか、何にも知りませんでした。気付いたら、お父さんとお母さんの離婚が決まっていました。私の中で永遠だと信じていたものが、永遠ではなくなってしまったように感じて、心にぽっかりと大きな穴があいてしまったようでした。これが事実だとすぐには受け入れられなかったし、本当は受け入れたくありませんでした。
離婚から何日か後、お父さんの誕生日がありました。おめでとうのメッセージを送るか少しだけ迷ってしまいました。でも、自分のお父さんに“誕生日おめでとう”を言わない理由なんてある訳ないと思って、例年通りメッセージを送りました。次の日の朝、目が覚めるとお父さんから返信が来ていました。そこには「だめな父でごめんね、生まれてくれてありがとう」と書いてありました。これを見たとき、これが現実なんだ、と初めて実感が沸いたような気がしました。
そして今、離婚から約一年たちました。お父さんとは一年以上会っていません。それでも、お父さんが私の中から消える瞬間はなくて、今でも至るところでお父さんの影を探してしまいます。少しでもお父さんの姿がよぎるものを感じたりすると、目頭がじんわりと熱くなります。
ずっとお父さんのことを考えていて、分かったことが一つだけあります。それは、私はお父さんのことが本当に大好きだということです。頭で考えているよりも、心はずっとずっとお父さんのことが大好きなようです。幻のように感じるときもある昔のお父さんも、今のお父さんも、そしてこれから先のお父さんも、永遠に大好きです。
そんな今の目標は、大好きなお父さんに誇りに思ってもらえるような娘になることです。一生懸命努力して、お父さんに幸せな姿を見せてあげたいし、お父さんも幸せにしてあげたいです。だから、私が自信をもって一人前になれたら、お父さんに会いに行こうと思います。すごく緊張してしまう気がするし、きちんと自分の言葉で伝えられるか自信はないけれど、絶対に会いに行って“私をうんで、育ててくれてありがとう”と感謝を伝えたいです。
今回は、今の私の気持ちをどうしても消したくなくて、形に残しておきたくて、この作文を書きました。お父さん、いつか会える日まで、どうかお元気でいてください。そして、お父さんは永遠に私のお父さんです。
心からのありがとうと大好きを込めて。
石本 恵里香(29) 福岡県
小さい頃、私は父と一緒によく走っていた。車のほとんど通らない、新鮮な空気をいっぱい吸って、田舎の一本道を父の背中を追って走っていた。マラソン大会にも一緒に出た。ゴールは遠いのに、いつも父は決まって「あと少しだ。」そう言ってあきらめそうになる私を引っ張ってくれた。
短距離は苦手、球技も苦手、でも長距離は今でも大好き。その始まりはきっと小さい頃の父とのランニングなのだと思う。大人になっても走っていると言うと、そんなきついこと、何で今もやっているの、と聞かれることが多い。実家を離れ、一人暮らしをして、仕事をし、父と連絡を取ることは何かあったとき以外はほとんどない。だけど、そんな日常の中で、私は一人ランニングをしながら、ふとした瞬間に小さい頃、一緒に走った父との時間を思い出す。
社会人になって、父と同じマラソン大会に出た。タイムとか結果とかそういうのより、父と一緒に走る喜びとゴールした達成感を味わえたのが、何より嬉しかった。疲れ切った身体とはよそに、心は日常では感じられないくらいの栄養を与えられたように元気になった。一緒に撮った写真には満面の笑みを浮かべて写る父の姿があった。今、マラソン大会は軒並み中止になっていて、以前のような世の中はすっかりどこかへ行ってしまった。けれど、走ろうという気持ちとランニングシューズさえあれば、私はいつだって走ることができる。一歩踏み出せば、今日その瞬間しか味わえない外の空気と自分の移り行く気持ちを味わえる。
どんなにつらいことがあっても、私にはランニングというぶれない軸がある。それを教えてくれた父には、面と向かっては恥ずかしくて言えない心からのありがとうを今日も実家から離れた土地で私はつぶやきながら、ランニングシューズに足を入れる。
朝見 煌仁(8) 神奈川県
ぼくは、生まれた時からパパがいなくて、ママとくらしてきた。生まれた時からずっとパパがいなくてさびしかった。たまにおばあちゃんが来て一緒にいた。それでも、僕はさびしい気もちは変わらなかった。そして4才になったある日毎週金曜日に行っていたやき鳥屋で奇跡が起こった。僕が隣にすわっていた男の人を指でつんつんしてみた。そしたら、ふり向いてくれた。それを何回もやってみると、なんとママとその男の人がけっこんする事になった。僕はパパがいなかったので、その男の人とママがけっこんするのをすごくよろこんだ。それから7才になって僕はパパから手紙をもらった。手紙をよんだら、僕がお勉強をしている姿を見てパパも頑張ろうと書いてあった。僕はそれを読んでびっくりした。次は僕がパパが頑張っている姿を見習おうと思う。
僕のパパになってくれて有難う。いつまでも僕のパパでいてね。
いつかパパみたいな大きなせ中になりたいな。
吉田 朝美(21) 大阪府
働かない父に苦労ばかりかけられてきた。躁うつ病のせいもあったのか、頭に血が上ると制御が効かなくなるのでどこへ行っても仕事が続かない。調子の悪い時は被害妄想が激しくなり、母や私たち兄弟に当たり散らした。普段は優しい父が突然目の色を変えて暴走する姿は、何度見ても悲しかった。不安定な父は昔から精神病院への入院や家出を繰り返していたが、私が十五歳の頃にようやく離婚が成立し、完全に家からいなくなった。
父がいなくなると、母は私に父の愚痴をよくこぼした。離婚は父に原因があることは明らかだったが、事実を知れば知るほど父のことが嫌いになってしまう自分が怖かった。家族にひどい苦労を負わせた父を恨みつつも、一人ぼっちになってしまった父を心配する気持ちがあったからだろう。穏やかな状態の父を忘れることはできなかった。
連絡をとることは、母から禁止されていたが、父からは時折メッセージが届いた。聞いてもいないのに近況を報告してきたり、話したくもないのに学校のことをきいてきたり。毎回一度は無視しようとしたが、しばらくすりと決まって父の寂しそうな背中が頭に浮かんできた。嫌いになったはずの父を気にかけてしまうことが悔しかったので、結局なるべくそっけなく返信した。五年ほどそんな状態が続いた。
しかし、私が二十一歳になった大学三回生の夏、突然霧が晴れるように父を嫌う気持ちがなくなった。私が少しだけ大人になったのだろうか。父を恨むことにもはや何の意味もない、と思えるようになったのである。母は、あれから別の人と新たな愛を育み、幾分穏やかになった。姉は結婚して二人の子どもを授かり、兄や弟も好きなことを何だかんだ楽しそうにやっている。私自身は念願の大学で好きな勉強ができて、好きなものと沢山出会い、おまけに心の底から信頼できる男性に出会えた。貧しい一人暮らしを強いられているが、それでも胸を張って幸せだと言える。
父を恨む気持ちがなくなると、突然父と話がしてみたくなった。もう何年もまともに話せていない。これまでに起こったことを一番正直な気持ちで話して、今の私を見て欲しい。もしかすると当てつけだと思われるかもしれない。しかし、私は失われた時間を少し埋めたいだけだ。未だに「またかけっこしような」とメッセージをよこす父である。私のイメージは、小学校の頃で止まっているに違いない。父がいてくれて、私を生んでくれたおかげで今はこんなに幸せに暮らせていることが伝わればいい。そして父も同じように、新たな人生を幸せに歩んでいてほしい。もしもまた会える日が来たら、きっと今までで一番素直に話せるだろう。
2021年入賞作品
「父の魔法の手」久家 祥子(33)福岡県
「しゃあない」稲森 彩子(22)大阪府
「父のチャーハン」森 惇(37)千葉県
「福耳のバトン」岩本 香菜(37)大分県
「狂わない時計」中野 民子(45)大阪府
「父のカメラ」田仲 浩子(58)神奈川県
「お父さんの助手席」吉田 愛央(17)愛媛県
「私の父」笹村 弥生(20)山口県
久家 祥子(33) 福岡県
子どもの頃、私は父の「手」が大好きだった。体格のわりに小さいその手は、指は短く、だけど厚みはたっぷりで、全くもってスマートさの欠片もないダサい手だった。そんなダサさ満点の手だが、ひと目見ると「クリームパン食べたいなぁ」と思わせる力量を持つ愛嬌ある手なのだった。いつもその手は温かくて柔らかくて、私はその手で頭を撫でられると包み込まれている気がして幸せだった。
およそ細かな作業には向かないであろう形体の手を持つ父だが、それが意外にも器用だった。その手にかかればプラモデルはえらくリアルに仕上がっていくし、たこ焼きも食品サンプルか?と思うほど美しい球体になる。家の何かが壊れれば何をしているのか私たちには謎な作業を経てあっという間に直し、美容師でもないのにやたらヘアカットもうまかった。そう、父の手には何もかも不思議と従順なのだった。
子どもの私はそんな何でもこなす父が好きで自慢だった。だって父の手から生み出されるものはいつだって周りを笑顔にしてくれるのだ。まるで魔法の手のように思えた。
大人になるにつれ、父と手を繋いだり、頭を撫でられることは当然減っていった。一人暮らしを始めると顔を合わせる機会すら減った。私は忙しくて心の余裕がなくなり、自分のことで精一杯になっていた。そんなある日。「あ、もう疲れた。ダメだ。実家帰ろう。お父さんとお母さんに会いに行こう」
世知辛い世の中に打ちのめされた私は、ふわふわと実家に帰ることにした。両親は久しぶりに帰って来たふわふわ娘の訪問を喜んでくれた。私ももちろん両親に会えて嬉しかったが、同時にとあることにショックを受けた。「あれ?何だかお父さん、小さくなった?」あんなに大きく思えていた父が小さく見えてくるのは、成長した子どもの『あるある』だろうが、いざ我が身に起きると胸がキューッとなるものだ。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろうか?急に時間が貴重なものに思えた。私は何だか久しぶりに父の手をじっくり見たくなった。魔法にかかりたかったのかもしれない。
「ちょっとお父さん、手、見せてよ」
気恥かしさもあったが、勇気を出してそう言った。差し出された父の右手を私は手相を見るかのごとくマジマジと見た。大人になって改めて見つめたその手は何だか見覚えのある手だと思った。いや、見覚えどころか、見飽きる程見ている手にそっくりだ。これは毎日見ている手と一緒じゃないか。私は自分の右手を父に見せた。
「そっくりやんか」
ダサいダサいと思っていた手にいつの間にか私の手はそっくりに成長していたのだった。私は指が短い自分の手が好きではなかったのに、父にそっくりに育ったその手に急に愛着が沸いてきた。こんなに似ているのだから、もしかしたら私の手も、そこから生み出されるもので周りを笑顔にできるんじゃないだろうか?そんな根拠のない自身が沸いてきたのだ。
父の魔法の手には到底及ばないが、きっと私はその魔法をちょっとは引き継いでいるはずだ。何て言ったって、その魔法の手に育てられた私なのだ。『この手から紡がれるものを自信を持って大切にして、周りの人を幸せな気持ちにできるよう頑張りたい』そう思えた。
その第一歩として、まずはこれを一生懸命に書こう。これを読んでくれた人がほっこりした気持ちになってくれたら万々歳だ。
稲森 彩子(22) 大阪府
「しゃあない。」
これは関西弁で「仕方がない」という意味なのだが、この言葉が父の口癖だ。
私はこの言葉が苦手だった。なぜなら、「しゃあない」の一言で片づけられてしまうと、結果は元から決まっていて、どれだけ努力をしても運命は変えられないといわれているような気がするからだ。
『失敗すれば反省をして同じ失敗は繰り返さないように努力するべき』と考えている私にとって「しゃあない」という言葉は、まるで反省の色が無く無責任に聞こえる。
父がこの言葉を口にする度に「反省はしないのか」と憤りさえ感じていた。
18歳の時、私は病気になった。
『神経性無食欲症』いわゆる『拒食症』だ。久しぶりに会った親戚に、「結構体重あるよね。」と言われたのがきっかけだった。身長165cmで体重49kgと決して太っていたわけではなかったとは思うが、その一言が私の胸の深い所まで突き刺さった。
その日以降、お菓子はもちろんのこと肉や卵や乳製品なども、カロリーが高いからという理由で一切口にすることを辞めた。健康的なダイエット方法をきちんと調べてから実践すれば病気になんてならなかったのに、と何度も後悔したが、それはもう後の祭りだ。
結果、3ヵ月で10kgも減量できたのだがその代償として拒食症を患った。痩せても痩せてもまだ痩せたくて、自分は太っていると思い込んでいた。100gでも体重を減らそうと水分すら口にするのも嫌がった。
ついに体重が37kgを切った時、いよいよ母に連れられて病院へ行った。生命の維持も危ういほどの低体重だと告げられ入院する羽目になった。
私は「こんなことになってしまって情けない」と自分を責め続け、「毎日母も一緒に居たのに止めてあげられず母として情けない」と自分を責めていた。
やり場の無い怒りと不安をお互いにぶつけ合い病院内で喧嘩をすることもしょっちゅうあった。
そんな状況でも父は「しゃあない」と言っていた。
私が無謀なダイエットをしたことを責めることもなく、もちろん母を責めることもなく、父自身を責めることもなかった。「しゃあない」以外の言葉は何も言わなかった。
一度、見舞いに来てくれた時も「綺麗な病室やな。ホテルみたいや。」とワハハと笑い、体調を気遣う言葉をかけることもなく「ほな!」と颯爽と帰って行った。わが子が入院しているというのにあまりにも冷たくないか、と不快になり、私はそれ以降父と距離を置くようになってしまった。
退院後も、病状は悪化と良化を繰り返し、なかなか完治には至らなかった。そのもどかしさを私はよく母にぶつけた。
「病気になるくらいなら、ダイエットなんてするんじゃなかった」と。
すると母はニコッと笑い「もうそんな風に言うのは辞めようよ」と言った。
その時初めて、母が教えてくれたことがある。私の入院中にたった一度だけ、母は父の前で「自分は母親失格だ」と泣いたことがあったそうだ。すると父は「もう過ぎたことを後悔してもしゃあない。これからどうしていくか、どう病気と向き合っていくのか考えよう。あの子も病気になりたくてなったわけじゃないし、母親に失格も合格も無いよ。」と言ったそうだ。
泣きじゃくる母を見て「過ぎたことはしゃあない!」と相変わらずワハハと笑っていたらしい。母はその言葉に救われ、やっと前を向くことが出来たと言っていた。
私はその時に初めて、父の「しゃあない」に込められている意味が分かった。反省していないというわけではなく、ただ『後ろは振り向くな』という意味に過ぎなかったのだ。思えば、私が病気になったことに対して、一度も「どうして」と責めなかったのは父だけだった。
また私が家の中でどれだけ当たり散らしても決して怒らなかった。
幼少期のころからそうだ。躾や礼儀には厳しかったが、それ以外の失敗はほとんど「しゃあない」で済まされ、怒られた記憶はあまりない。
そのことに今明で気付かずにいた自分が恥ずかしく、布団の中で一晩中泣いた。
それ以来、私は「もう病気になったのはしゃあない」と自分のことを受け入れて前を向くことにした。病状は、三歩進んで三歩下がるというようなスローペースではあったが徐々に善くなっていった。
今でも、私が小さな事で悩んでいると、父は「しゃあない」と言う。それ以外の言葉は何も言わないし、後になって悩み事は解決したのか、とも聞いてもこない。
でも、もう憤りを感じることは無い。それどころか「しゃあない」と言われると「そっか、しゃあないよね。」と心が軽くなる。
あれほど苦手だった「しゃあない」が今では悩みの種を小さくする魔法の言葉になった。
お父さん。
こんなに素敵な魔法の言葉をずっと言ってくれていたのに、気付かなくてごめんなさい。そして、ありがとう。
森 惇(37) 千葉県
幼い頃の私の記憶には、父が全く登場しない。私が小さい頃は特に忙しく、休み返上で年中飛び回っていたらしい。育児も母に任せっきりだったようで、私は母一人に育てられたといっても過言ではなかった。私はそれが当然だと思っていたし、そのことに不満はなかった。ただ、もちろん父との会話はほとんど無く、ごく稀に家に帰ってくる父の存在は、父親というよりたまに会う親戚のおじさんに近かった。私と父の関係は、そのまま変わることなく時が流れていった。
そうして私が思春期に入った頃のある日、母と私は口論になった。食事の味付けが薄いとかそういう些細な話だった。そこに、たまたま居合わせた父が仲裁に入り、なぜか結局、「よし、じゃあ父さんが作ろう」ということになった。
その頃の父は、長い単身赴任中だった。この日も、たまたま帰ってきただけだった。父が突然私と母の間に割って入ってきたことにも驚いたが、そもそも父の料理を食べたことがない私は、どんな料理になるのか半信半疑だった。だが、そんな私の思いをよそに、父は冷蔵庫からパッパと食材を取り出して手際よく料理をしていった。
「できたぞー!」
十分ほどでフライパンを持った父が現れ、私の皿に盛り始めた。ニンニクの効いた良い香りがするチャーハンだった。しかし、父のチャーハンには尋常ではないほどの野菜が入っていた。その量や見た目に圧倒されてちょっと気が引けたが、父に勧められて一口食べると驚いた。
「うまい!」
思わず声を上げた。野菜は多いが、バターがたっぷり入って私好みの濃厚な味。食べ盛りの私にはうってつけだった。なんだ、めちゃくちゃ美味しいじゃないか!私は一心不乱に食べ続け、あっという間に平らげてしまった。私が食べ続けている間、父は、「うまいか?どんどん食え。お父さんは料理が上手なんだぞ」と、誇らしげに笑っていた。
そういえば、健康に気遣う父はいつも外食をせず、休日に作り置きしたものを毎晩食べていると母が言っていた。今思えば、単身赴任先で一人で食べている自分の料理を思春期の息子が喜んで食べていることは、父にとってはよほど嬉しいことだったのだろう。
以来、あのチャーハンは私の好物となり、父が帰ってくるたびに頼むようになった。父も本当は家でゆっくりしたかったかもしれないが、毎回快く作ってくれた。そして何より、私と父の会話もたくさん生まれ始めた。思春期で母との会話が少なくなっていた私は、以外にも料理という形で、父との関係が新たに築かれていった。
あれから二十年以上の月日が経つ。
生涯現役で働いていた父が突然他界し、バタバタしているうちに三周忌となった。まだ父の死が実感できず、「チャーハン作るか?」と父が書斎からひょいと顔を出してきそうな錯覚に陥る。キッチンを見れば、父が元気にチャーハンを作ってくれた後ろ姿を思い出し、切なくて歯痒くて涙が溢れてくる。だが、涙を拭いて前を向こう。親子を結び付けてくれたあのチャーハンや破顔する父の姿は、これからも私の中に永遠に生き続けるのだから。
岩本 香菜(37) 大分県
私の父はこの世にはいない。父が亡くなったのは平成26年、今から6年前。それは私が妊娠7ヶ月のことだった。
父と母の待望の一人目として生まれてきた私は溺愛されて育った。父は遊びに夢中になる私を怒りもせず、それどころか茶碗を持ち追いかけながら食べさせてくれていた。鼻が詰まっている時は、自らの口で鼻水を吸い込む程。目の中に入れても痛くない、とはこのことを言うのではないだろうか。
ただ、そんな父は時間厳守の自衛官。物心ついた頃から門限五時のルールができていた。私は、友だちと遊びの誘惑に負け、度々門限を破った。五時に仕事が終わると直帰する父。父の自転車を恐る恐る確認し、なければセーフ。定位置にあるとアウト。ソワソワしながら帰っていたなぁ、鍵をかけられしばらく家に入れてもらえず、玄関の前で泣いていたなと、あの頃が懐かしく思い出される。
優しくもあり、厳しくもある父。そんな父に対し、それなりに反抗期もあったが、仕事の関係で単身赴任となったこともあり、適度な距離の父娘の関係は良好だった。
そんな父は私たち家族に大きな秘密があったのだ。それは、私が結婚してすぐの夏の日、あっけなくバレた。胃の再検査を二年間も放置していたのだ。
「今年は三年目(三回引っかかった)から、仕方なく病院に行ってやるんじゃ」と、なぜか上から目線で言っていた父。
そこで発覚したのが胃癌。ステージ4。
しかも、胃癌の中でも最も稀なAFP産生胃癌という予後の悪いものだったのだ。余命一年の宣告だった。奇しくも、診断が下りたのは、私の初めての結婚記念日だった。主人とご飯でも食べに行こうかと言っていた矢先、青天の霹靂であった。
父は病院で言い放った。
「自然に任せる。悪あがきはしない」と。その時はまだ、痛みなど自覚症状もないので、しばらくは家で過ごすことに決めたのだった。
その矢先、私の妊娠が分かった。父の生きる希望が出来たと私はとても嬉しかった。
「孫が出来るんやな」と、噛み締めるように言った父。
それから間もなく私は悪阻が始まった。私は実家に帰ることに決めた。それは、もしかしたら、父と過ごす最後になるかもしれないという思いからでもあった。
季節が少しずつ変わり、もうすっかり寒くなった冬の日、父は胃や腰の痛みが出て寝込むようになっていた。体も徐々に小さくなり、体重も減ってきているのは見た目でも明らかだった。そんなある日、私が悪阻で寝込んでいるのを見て父が言った。
「お前の苦しみや痛みを全部お父さんが取り除いてやりたい。お父さんが死んだ時に、悪いもの全部持っていってやるからな」と。
泣き言を決して言わない父なのに、そんな父でさえ痛みに苦しみ過酷な状態なのに、悪阻でキツイと漏らす娘に寄り添ってくれるのかと、父にバレないように炬燵にもぐり声を押し殺して静かに泣いた。父の愛と優しさを感じ、父の子で良かったと心から思えた。
私の悪阻も落ち着いた頃、父は入院することになった。限られた命をつなぐための胃のバイパス手術だった。手術は成功し、退院という直前、父は脳梗塞を起こしたのだ。
幸い処置が早く命に別状はなかったものの、左半身に麻痺が残った。
私は仕事をしている母の代わりに、毎日お見舞いに行った。一人で食事をすることも難しく、ある日ご飯を食べさせていたら、父の目から大粒の涙が溢れた。父の涙は私の結婚式でさえ見たことがなく、初めて見たのであまりにも衝撃で、私も気がついたら涙がこぼれた。桜のきれいな時期だった。
その頃、子どもの性別が男の子だと分かった。父は男の子が欲しく、もし産まれたら名前は孝治にするとまで言っていた程。だが、三姉妹。父の夢は叶わなかった。だからこそ孫が男の子なら絶対に喜んでくれると思っていた。父は、
「ヤロウか」と一言、その後窓の外をじっと眺めていた。
父に報告して何日か経ったある日、病院から意識不明だと連絡があった。その時はなんとか持ち堪えたが、大部屋から個室へと部屋が変わった。それは、そろそろ覚悟して下さいという意味だと受け入れた。
会話をするのも苦しそうで、筆談へ。達筆だった父が、筆圧も弱く、ミミズのような字になるのが、なんだかすごく切なかった。
父の涙を見た一ヶ月後、父は旅立った。この日は父と母の33回目の結婚記念日。手作りのアルバムを病室で製作し、夜11時頃出来上がったのだ。アルバムを枕元に置き、耳元でおめでとうと言い残し、病院を出てすぐのことだった。母は
「あと15分経ったら日付けが変わってたのに」と。父はどうしてもこの日が良かったのかとさえ思ってしまった。
四十九日を終え、父の死から77日後、緊急帝王切開で息子が生まれた。普通分娩で産みたかったが、母子共に危険と判断され、帝王切開となったのだ。ただ、私の子宮にあったチョコレート嚢胞も出産と一緒に手術で吸い取ってくれたと後に聞いた。その際、私と息子の命もだが、私の身体の悪いものを全部持っていってくれたのではないか、と父をふと思い出したのだ。
小さく産まれた息子も耳だけは誰にも負けない程大きかった。実は父も福耳。生前、得意げに言っていた福耳自慢。父が息子に残したプレゼントだと、私は密かに思っている。孝治ではないが、私はどうしても父の字をつけたいと夫に話し、夫も快く承諾してくれたので、治という字をもらい、恵(けい)治(じ)と名付けた。
そんな息子も6歳になり、弟も出来た。当たり前のような幸せな家族ができた。
ただ、日常の幸せは忙しい日々に追われる中で忘れがちだ。でも、決して人の死はどんなに忙しくても忘れることはできない。
毎日、私は寝る前に息子の耳を見ると思い出す。父は今頃何をしているのかな、もし生きていたら、、、などと。神様や仏様よりも、私は空で見守ってくれているのは父ではないか、と思ってしまう。
そして、父は、日常の幸せを忘れないことを、息子の福耳を通して教えてくれている気がするのだ。
中野 民子(45) 大阪府
「あぁ、また時計の時間がずれてきたなぁ。」
先日、時計の電池を交換したついでに時間を合わせたばかりなのに、また時間が狂っている。洗面所に置かれた時計は早くなり、部屋の掛け時計は遅くなる。この時計は時間が何分狂っていると頭で計算しながら、今日も朝の支度に追われる。
そんな時に思い出す父の言葉。
「この時計は1秒たりとも狂わない。」
父は嬉しそうにその懐中時計を幼い私に自慢した。鉄道会社に勤めていた父は時間を忠実に守る人だったようだ。人付き合いも良く、職場の仲間も沢山いたようだ。
子供だった私との約束が守られることは、ほとんどなかったのだけど。
私はその時計がどうしても欲しくて、父に何度かお願いしてみたが、会社からの大切な記念品だと、いつも断られた。
子供だった私も社会人になり、子供にだけ与えられたゆっくりとした時の流れを感じることもなくなった。目まぐるしく日々が過ぎていく中、突然私の手元にその時計がやってきた。父が急死し、部屋を片付けている時にその時計を見つけたのだ。あまりに突然のことで、寝ても覚めても父の死が夢のように感じられた数日だったが、この時計を見て父はこの世にいないことを現実として感じた。狂わないはずの時計は止まっていたのだ。時間が狂わなかったのは、毎日父が時間を合わせ、手入れをしていたからだった。
父が働く鉄道会社では、少しの時間の狂いも許されず、毎日時計が狂わないよう確認を怠らなかったのだと、この時知った。
子供だった私には、決して友達に自慢できる父ではなかったが、大人になった私なら少しは父の気持ちが理解できるだろうか。父の譲れないこだわりは何だったのだろう。そんなことをふと考えながら、また今日も時間に追われる朝がくる。
田仲 浩子(58) 神奈川県
父と話をしているとき、何かの拍子で写真の話題となった。私は自分の子どもの頃の写真の枚数が、姉のものに比べて半数以下であることを思いだした。それで、当時のカメラマン役だった父に、
「お姉ちゃんの写真はたくさんあるのに、私のは少ないね」
と言ってみた。私としては父が、
「それは悪かったなぁ。でも、おまえもお姉ちゃんと同じようにかわいかったし、同じように大切な子どもだったんだよ」
と言ってくれるものと思っていた。
ところが、父は次のように言ったのだった。
「うん。お姉ちゃんは一人目の子どもだったから、写真もたくさん撮ったけれど、おまえはもう二人目の子どもだったから、写真を撮るのも飽きたんだ」。
あまりの予想外の返答に、私は思わずのけぞってしまった。しかし、のけぞった体を元の位置に戻す頃には、笑いがこみあげてきた。
と同時に、
1.「飽きたのなら仕方がないか…」という思いと、
2.「それにしても、『飽きた』なんて、よく言えるなぁ」という思いと、
3.「父がそんなことを言えるくらいには、私も大人になったんだなぁ」
という思いが、心の中で錯綜した。そしてこのとき、父は全く意識していなかったと思うが、私は次のことを学んだ。それは、
「思ったことは、言葉にしてもよい」
ということだった。
もちろん、これは相手との人間関係にもよるし、状況によっても違ってくる。しかし当時、「こんなことを言ったら、相手の人を傷つけたり、いやな想いをさせるかな」ということが気になって、なかなか思ったことを言えない自分がいた。だからなのかもしれないが、本心を言いあえる人間関係はおもしろいし、基本的には相手を信頼しているから言えることだし、その場では言われた方はちょっと驚くかもしれないが、かえってそこに、新しい発見や笑いが生まれて、結果として二人の人間関係がより深まる、ということもある、と思えた。
もっとも父は、自分が発した「飽きたんだ」の一言で、娘がそこから人生の教訓じみたことを学びとってしまうことなどは、知るよしもない。そのことがおかしくなって、再び私は一人で笑った。
父との会話は、次第に写真からカメラの話になっていった。父は姉が生まれたとき、カメラがどうしても欲しくなり、職場の先輩から中古のカメラを買ったこと。そして、そのカメラは当時としてはとてもいいもので、はじめてそのカメラが自分のものになったときは、本当にうれしかった、ということを、ニコニコしながら語った。
私も、そのカメラのことは、よく覚えている。とてもがっちりとしたこげ茶色の革のカバーがついていて、5,6歳頃の私の目には、きりんの顔ほどある大きなカメラに思われた。ふだんはよく、床の間の上に置かれてあった。しかし、いつの頃からか見かけなくなり、気がついたときには、もうそこにはなかった。
私はなつかしくなって、父に聞いてみた。
「お父さん、あのカメラ、まだあるの?」
すると父は、どこか遠くを見るような目になって、
「あるよ。おまえたちを写したカメラだと思うと、捨てられなくてな」
と言った。
さっきまでは、好き勝手なことを言っている父に思えていた。しかし、この言葉を聞いたとき、「父は、私の写真を撮ることには飽きてしまったかもしれないが、私たちを愛することには、飽きないでいてくれたのだ」と思った。
こんな話を父としてから、早五年がたった。今はもう、実家には誰も住んでいない。しかし、父のカメラは私がもらい、今、そのカメラは、私の家の本棚に置かれている。そのカメラを見ていると、ひな壇の前で、「もっと笑いなさい」としかられながら写真を撮られたこと、幼稚園の入園式の朝早く、まだ眠たいのに起こされて、ふきげんな顔のまま、記念写真を撮られたこと、フイルムがうまく巻きとられず、寒い中、ずっと立ったまま待たされたことなどなど、今となっては懐かしい思い出が、父の姿と共によみがえる。
久しぶりにカメラを手にとると、思っていたよりずっと重く感じられた。この重さが、私にとっての父なのかもしれない。そして、カメラのむこうにいた父につぶやいてみた。
「お父さん、これからもたまにでいいから、私の写真、取ってね。お父さんのいるところからもよく見えるように、これからはとびっきり素敵な笑顔、お父さんに見せるから」と。
吉田 愛央(17) 愛媛県
看護師だった母は夜勤も多く、思い出の中の私はいつも父に肩車されていた。肩車されて見える景色は、父が見ている景色と同じように感じた。小学生になると、父の帰りは遅くなり、夕飯を一緒に食べる回数が少しずつ減った。それでも、休日になるといろんなところに連れて行ってくれた。運転する父の隣が私にとっては特等席で、目的地まで父が私の話をずっと聞いてくれるから、私は眠たくてもしゃべり続けた。
中学生になり、部活動で忙しくなると、父とは生活がすれ違った。たまに顔を合わせても、何を話していいのかわからず、何となく父との時間が気まずくなっていった。
高校一年生の三者面談で、予定日が休日だということもあり、母は父に行かないかと聞いたらしい。しかし、父は断った。それが妙に突き放されたように感じ、その時初めて父との間に大きな壁ができてしまったことを実感した。
私は、テスト期間に入り、夜遅くまで勉強する日々が数日続いた。のどが渇いて、リビングに行くと、父が帰ってきていた。
「おかえり。」
「ただいま。」
それだけの会話をして、私は冷蔵庫を開けた。
「何か作るか。」
お腹がすいていたわけではなかったが、私は何となく、「うん。」と返事をした。久しぶりに食べた父の手料理はインスタントラーメンだった。
「どうして三者面談、断ったん?」
「作ってくれてありがとう。」や「おいしい。」の言葉は出さなかった。
「お父さんが行ったら、嫌だろう。」
「なんで?」
「傷のこと、友達に言われるかもしれない。」父の顔には大きな傷があった。父が子供のころにできたものらしく、見慣れている私からすれば何でもなかった。それでも、小さい時から、友達には父の顔の傷について問われたことは何度かあった。しかし、それが嫌だと感じたことは今まで一度もなかった。それより、父がそのことを気にしていたとは思いもしなかった。
「そんなこと、気にしないよ。」
私の言葉に特に父が反応することはなかったが、それからというもの、自分の出勤時間を少し早めて、毎朝のように私を学校まで送ってくれるようになった。私の席は変わらず父の隣だった。学校までの数十分の道のりで私たちがこれといった話をすることはなかった。しかし、父は毎朝私を学校に送るために少し遠回りをしてくれる。それが不器用な父なりの優しさなのだろうとうれしかったりもする。今の私には、直接こんなこと言えないけれど、卒業するころには、自分の言葉でちゃんと伝えたい。
「いつもありがとう。」
笹村 弥生(20) 山口県
私は、優しい父が大好きです。私が幼い頃沢山抱っ子やおんぶや肩車をしてくれたからです。人見知りなので外ではおとなしいですが、家に帰ると思い切り笑い合っていました。仕事で疲れていても遊んでくれてありがとう。
私は、頑張る父が大好きです。私が小学生の頃、牛飼いを仕事に足しました。農家としての幅が拡がり、家に帰ってくる時間が遅くなっていました。家族の為に必死に働いてくれてありがとう。
私は、怒ってくれる父が大好きです。私が中学生の頃、不登校にはなるなと教えてくれたお陰で、特別支援学級のみんなと出会うことができました。あきらめなくて良かったと感じさせてくれてありがとう。
私は、陰で見守ってくれる父が大好きです。私が高校生の頃、本や大学で心理学を学び始め、心の病について理解を深めようとしてくれました。高校生活が辛くなったら通信制を考えてもいいと声をかけてくれてありがとう。
私は、我慢できる父も大好きです。私が保育短大生の頃、もう少し続けてみろと背中を押してくれました。授業を受け続けていくうち、親の立場が徐々に理解できるようになっていきました。自分の子どもが苦しむ姿を見る親の辛さに気付かせてくれてありがとう。
私は、父を尊敬しています。今まで私をここまで育ててくれたからです。仕事は挫折してばかりですが、父のように弱音を吐かず、好きなこと・やりたいことに向かって強く生きていきたいと思います。
父さん、人から信頼を得るって難しいけど、私も農業を通して沢山のあたたかい人と繋がりたいです。これからもまだまだ色々なことを私に伝えてください。そのかっこいい背中で、父さんらしく。
2020年入賞作品
「お二階バス」石田 桂子(40)福岡県
「漬物の味」豊崎 朋子(49)オーストラリア
「本当の意味」小松崎 潤(36)東京都
「『1』と『2』だけの通知表」大西 賢(47)東京都
「父とタバコ」松井 裕子(47)茨城県
「ファーザーズ目線」星野 ゆかり(32)静岡県
石田 桂子(40) 福岡県
幼い頃の私が、楽しみにしていたこと。
お昼ごろ、家の中でママに遊んでもらっていると、家の外からクラクションが、
「ブブブ。ブブブ。」
と、鳴ることが、しばしばありました。
「わあい。パパだぁ。」
パパが、仕事の途中で、トラックを家に横づけして、
(むかえにきたよ)
と、合図をしているのです。
私のパパは、若い頃、トラックの運転手でした。私はパパのトラックを『お二階バス』と、呼んでいました。ママに抱かれて、助手席に座って観る景色は、パパに肩車してもらうのよりも、もっと見晴らしが、よかったからです。バスの二階にいるように・・・・・・。
「よかったね。パパが一緒に、お仕事に、いこうねって」
ママがにっこり笑います。
トラックの助手席の階段は、子供の私には高すぎるので、ママが私をだっこして、運転席から、手をのばしているパパに渡してくれていました。
「おお。いい子にしてたか?うれしいか?」
「うん。パパ。ありがとう」
助手席から見るパパは、とても格好よく見えました。
「ほら、いくぞ。」パパが、言います。
「はあい。しゅっぱあつ!!」私もいいます。
トラックはゆっくり動き出しました。
「すごぉい。」
「そうか。すごいか」
パパとママが、顔を見合わせて笑います。
「うん。パパが、一番、格好いい。」
「そうか。そうか。」
その後に、トラックを運転するのに集中するために、「キリリ」と、真顔になるパパも大好きでした。
**
パパは、五人兄弟の五男として、誕生しました。
「また、男か。」と祖父は言ったそうです。
だから、私が、ママのお腹の中にいて、男の子か、女の子か、まだ、わからないころから、パパは、「絶対に、女の子がいい。」と言っていたそうです。
「女の子が生まれた。」
電話で伝えられたパパは、なにもかも放り出して、ママと私のもとへ、かけつけ、
「ありがとう、ありがとう・・・・・・。」
と、泣きながら何度も繰り返したそうです。
そして私は、パパとママに尋常でなく、かわいがられて、恵まれた幼少期を、過ごしました。
**
私が、散々、はしゃいで、はしゃぎつかれてうとうとしていると、パパとママのヒソヒソ声がなんとなく、聞こえてきます。
「桂子、ねたか?」
「うん。ねむりかけているみたい。」
ママが答えると、パパはトラックのスピードを、おとします。
私は、いつも、それを確認して、深い眠りに、おちるのでした。
**
それなのに、いつの頃からか、パパの職業について、私は引け目を感じるようになってしまいました。
「桂子ちゃんのお父さんは、何をして働いているの?」
「トラックの運転手!!」
私が、はりきって答えると、訊いてきたおばさんは、
「ああ。トラックの運ちゃんね。」
と、軽蔑のまなざしで、私をみました。
これとは、多少違っても、”トラックの運転手“というと、見下したような言い方をする大人が、少なからずいました。
逆に、“医者”とか、“弁護士”とかの子供であると、親の七光りのようなものがあるということも、成長するとともに、わかってきました。
そんな私に、ママがいました。
「パパは、汗を流して働いてくれているのよ。ママと桂子が生活できるのも、全部、パパのおかげなのよ。」
ママは続けます。
「恥ずかしがることなんて、ないのよ。桂子は、お二階バスに乗ることが恥ずかしいの?」
「ううん。お二階バスも、パパもママも、大好き。」
「じゃあ。いいじゃない。」
「うん」
**
あの頃から、歳月が過ぎ、パパも定年を迎えました。私も、四十歳になり、あの頃のパパの年齢を、追い越しました。
今だから、わかります。
“一家の大黒柱”として働くことが、どんなに大変か。責任感を持たなければ、ならないか。
(パパは、“お二階バス”に私を乗せていくことによって、働いている姿を、見てほしかったんじゃないかなあ。)と、思います。
“職業に貴賤は、ない”と、簡単にまとめることもできます。
ただ、「パパは、本当は、野球選手になりたかった。」ということを、私は、知っています。
家族のため、夢に、おりあいをつけて、生きるために仕事をしていたパパを、今でも、いい父親だと思います。
これからは、余生を楽しんでほしいです。今まで、ありがとう。
これからも、宜しくね。パパ。
豊崎 朋子(49) オーストラリア
朝起きれば、丼ぶりに、ドカンと入った野沢菜の漬物が食卓に上がっている。一服入れる時も、昼の時間も、夕飯の時も、必ず野沢菜の漬物がある。ここは、長野県の旧四賀村(現松本市)、父の生まれ育ったふる里だ。
毎年夏になると、神奈川県に住む私は、家族と一緒にここを訪ねた。
「よぅ、来たね。さぁ、上がりましょ」
花柄の割烹着をかけた伯母さんが、私たちをにこやかに笑顔で迎えてくれた。足の悪い婆ちゃんが、障子をガラッと開けて、居間からぬっと顔をだす。
「とわかったずら(遠かっただろう)。ほれ、茶でも飲んで、漬物食え」
家の中に上がると、今年もやっぱり野沢菜の漬物が、丼ぶりにこんもりと盛られていた。いやぁ疲れた疲れた、と言って父は、ズズズーっと茶をすすった後、つま楊枝二本を使って、3センチほどの長さに切られた漬物を、ザクザクザクっと4、5本串刺しにして、一口でバリボリバリ。私は茎の部分を一本だけ楊枝に刺す。小指をちょっと立てて、前歯でカミカミしていると・・・
「そんな食い方してぇ」
と、婆ちゃんが呆れている。この食べ方はどうも邪道らしい。とにもかくにも、子供だった私には、どうしてこんなに大人たちが、ボリボリボリと口を休めることなく野沢菜を食べるのか、不思議で不思議でたまらなかった。
そんなこんなで、帰りの土産は、やっぱり伯母さん特性の野沢菜の漬物。
「大した土産もなくてねぇ・・・」
と伯母さんが恐縮すると、
「いやぁ、これが一番の土産だよ」
と父は満面の笑顔で受取り、車のトランクに大事そーに詰め込むと、信州の山々を惜しみながら、くねくね曲がった山道を下って行った。
父は警察官だった。何事にもきちっとした性格で、警察が天職のように思えた。
ある日の晩、うぐいす色の包装紙に○○堂と印刷された菓子折りらしきものを持って帰宅した。父の手土産と言えば、大抵飲んだ時に駅前で買った天津甘栗だ。
それにしても珍しい。今日の手土産は、甘栗でもなく、時計の針は六時半。台所では、母は、あらかた晩御飯の支度が終わったとみえ、前掛けで手をふきふき、父の方をチラッと見た。そして、台所のテーブルに置いてある包みに目を向けた。
「あら、それなに?」
「・・・」
「誰からなの?」
「・・・」
父は大抵無言だ。聞いているのか、聞いていないのか・・・わからない。が、ちゃんと聞いている。
「お礼しなくちゃいけないわねぇ」
母が独り言のように言うと、
「礼なんていらないよ」
突然、父は口を開いた。
「そういうわけにはいかないわろねぇ?」
母は、隣にいた私に同意を求めるかのように言った。が、父は、何も答えずに、台所からすぅーっと出て行った。そして普段着に着替えて戻ってくると、テーブルの自分の席に腰を下ろし、その包をじっと見つめて、ぼそぼそっと話を始めたのだ。
うちの留置場に、コソ泥で捕まったのが入ってきてさぁ、そいつと当直の晩に、ちょこっと話したんだよ。そしたら、うちの田舎と同じような話し方するから、長野の生まれかって訊いたら、そうだって言うんだよ。だからさぁ、うちの野沢菜でも食わせてやろうかなぁと思って、弁当箱、ほら、あのカニの形をした弁当箱だよ、あれにちょこっと入れて持ってってやったんだよ。これでも食って、田舎のことを思い出せって言ったらさぁ、オイオイオイオイ泣きだすんだよ。声を上げてさぁ。お袋さんも泣いてるぞって驚かしたら、とにかくないてよぉ。俺もそれから気になって、もう一度野沢菜もって顔出して、お袋さんを泣かせるようなことだけはするなよって言ってやったよ。まぁ、それから俺もそっちに行かなくなって、気にはしてなんだけどな・・・。そしたら、今日、受付から電話があって、人が来てるっていうから、誰かと思って下に降りて行ったら、そいつがいてさぁ、おかげさんで目が覚めましたって、そう言うんだよ。仕事見つけて、初めて給料もらって、その金でこれ買って・・・。
父は、どこか遠い目をしていた。
「わぁ、わざわざあいさつに来てくれたんだね。なんか言ってあげたの?」
母は、ふいに父に尋ねた。
「いやぁ、言わないよ。そうかそうかって話聞いて、よかったよかったって、肩叩いてやっただけだよ。そしたら、世話になりましたって言ってさぁ、頭深く下げて、かえったよ」
お父さんって、こんなところがあるんだ。私はしばらく動けなかった。
ふと、外を見ると、車がいつもよりゆっくり通り過ぎていくような気がした。
「ふぅん。じゃぁ、これからは、まじめに働くんだろうねぇ・・・」
母は、つぶやくように言った。
「あぁ、そうだろうよ。未だに、あの時の漬物の味が忘れられないだとよ」
父は、来年九十歳になる。長年の習慣のせいだろうか。家の中でじっとしているのは、どうしても苦手らしい。今は、農家の畑を借りて、寒かろうが暑かろうが、毎日、ひとりもくもくと、野菜作りに精を出している。警察のカチッとした制服より、プ~ンと土のにおいのする作業服が良く似合う。
父は、シャキッと背筋が伸びたキューリを見ながら独り言のように言った。
生き物相手の趣味はいいぞ。生き物ってのは可愛がれば、まっすぐ育つもんだからなぁ・・・。」
父の何気ないその言葉から、ふとあの野沢菜の話を思い出した。父の見返りを期待しない無償の愛は、人に安心感と幸福感を与えている。遠く離れて暮らす父の顔を思い浮かべながら、私も父のような人になりたいなぁと、この年になってつくづく思う。
小松崎 潤(36) 東京都
教育係の父は何かにつけて「競争」という言葉を使った。
あれは中学三年の夏だった。僕は勉強が大嫌いで、通信簿は見事に「2」が揃っていた。3段階ならまだしも、当時は十段階である。さすがに両親は開いた口がふさがらず、父はすぐさま僕を集団塾にいれた。僕は全く乗り気ではなかった。勉強ができない僕はダメなやつって言われているみたいだから。
だけど父は言った。
「まあ、行ってみろ」
こうして始まった塾通い。そもそも僕は、ちゃんと勉強したことがないから持ちものすらわからない。だから恥ずかしいことに手ぶらで行ってしまった。
こうして初めて入った、つくし塾。そこは茶の間で勉強しているようなアットホームさだった。
僕は正直に話した。勉強が嫌いなこと。勉強の仕方がわからないこと。
すると米山先生が笑いながら言った。
「大丈夫よ」
だけど僕はかけ算さえ怪しかった。分数だってすっかり忘れていた。それでも先生は決して僕を馬鹿にせずに一から教えてくれた。
幸い、この塾はテストさえなければ誰かと争うこともなかった。競争、競争という割には父の選んだ塾は以外にも気楽な場所だった。
それから月日が流れ、友達が大学受験をする中で僕は専門学校へ行くことにした。なぜかって。それは勉強が嫌いだからだ。もう英語も数学もやりたくない。そんな安易な考えからだった。僕は勉強が嫌いだけど、お年寄りと子どもは好きだった。介護士か、保育士か。悩んだ末に介護の道を選んだ。まわりの友達からは「3Kだろ」と揶揄された。
「くさい、きつい、あとなんだっけ」
「きたない、だよ」
そんな会話は日常茶飯事だった。だけど全然気にならなかった。机で勉強するくらいならお年寄りの相手をしている方が幸せだから。
だけど就職してから3年目のこと。初めて移動の洗礼を受けた。新天地では当然右も左もわからず戸惑った。それに加え、もともと要領の悪い僕は周りの足を引っ張らないか気が気じゃなかった。気づけばいつだって時間と競争していた。
「あと三十分で食事介助をおわらせて」
「二時までにおむつ交換を済ませて」
頭の中は常にタイムスケジュールでいっぱいだった。そんな時、ナースコールで爪を切ってほしいとか散歩に行きたいとか言われると、ものすごく困った。
「ちょっと時間がないんで」
そう言って僕は断ってしまって。だけど本当はずっと後ろめたかった。だって僕らはやろうと思えば自分のことは何でもできるから。長くなった爪を切ることも、天気のいい公園を歩くことも。だけど老人ホームにいるお年寄りにはそんな自由がない。ああ、ぼくは何をしているんだ。
こうしてやってあげたいことと、やらなきゃならないことの狭間で僕はもがいていた。
すると異動してから二週間後、僕はついに四十度の熱をだした。突然のことだった。この日、僕ははじめて欠勤をし、その足で実家へ戻った。三年ぶりだった。居間に入るなり懐かしい畳の香りがした。しかし、すぐさま僕はどうしようもない気持ちに襲われた。もう行きたくない。もう死にたい。もう、もう。いっそ熱が下がらなければいいとさえ思った。しかし、神様は無惨にもたった一日で熱を下げてしまった。
翌朝僕は廊下をうろうろしていた。行こうか、休もうか。すすむ、とまる、もどる。気持ちも体もそんな感じだった。すると父がひょっこり顔を出して僕を呼んだ。
「おい、潤。なんかあったか」
僕は話した。父はそれを、うんうんと聞いていた。だけど最後に言ったんだ。
「まあ行ってみろ。介護ってさ、時間でやるもんじゃなくて、時間をかけてやるもんだろ」
ああ、そうか。僕は妙に納得して家をでた。
二日ぶりの職場は新鮮だった。だけど相変わらず僕は容量が悪かった。
おむつ交換ひとつとっても他の人より倍かかる。爪を切ろうとすれば他の方から呼び止められてしまい、なかなか仕上げることができない。だけど精一杯やってみた。そしたら気がついた。時間をかけてやるからこそ見えるものがあるんだって。お年寄りの嬉しそうな表情。さみしい、かなしい、傍にいてほしいという心の声。時間をかけるとそんな小さな表情まで見えてくる。確かに、たったひとりの力で、大きなことはできない。だけど、おおらかな気持ちで接すると「楽しい」とか「嬉しい」という気持ちが生まれて、自然と笑顔が増える。それは相手も同じだった。手をぎゅっと握れば喜んで、背中をさすれば「ありがとう」と笑った。そうか。僕にできることは、人の気持ちに寄り添うことなんだ。
そこで気づいた。父の考える「キョウイク」と「キョウソウ」の本当の意味。それは「今日、行く」と「今日、添う」ではなかろうか。
「とりあえず行ってみろ」
「時間をかけてやってみろ」
その言葉は僕に、一歩踏み出すことの大切さと、誰かに寄り添う事の意味を教えてくれた。
ああ、そうか。あの塾を選んだ父はその時既にそのことを教えてくれていたんだ。そんな気がしてならない。なんだか気づかなかった愛情が身に沁みて急に父に会いたくなった。
今年の夏は父のところにその答え合わせをしに行こうと思う。今さらちょっと、はずかしいけどな。
大西 賢(47) 東京都
高校一年生の一学期が終わって、通知表をもらった。しまった、と思った。通知表には5段階評価で「1」と「2」しか並んでおらず、「普通」を示す「3」は一つもなかった。
(こんな通知表を見たら、 父さん、悲しむだろうな)
そう思った。 我が家は兄も妹も優秀で、「4」や「5」ばかりが並んでいる通知表をもらっている。 そんななか、私だけ「1」と「2」のオンパレードなのだ。一体、どんな顔をしてこの通知表を見せればいいのだろう。
夕食の時間になり、 兄も妹も通知表を父に見せた。父は満足そうに笑った。
「さて、じゃあお前の通知表も見せてもらおうか」
そう言われて、仕方なく、私は通知表を見せた。
父は黙って通知表を見ていたが、ふいに、こんなことを言った。
「お前、将来に夢はあるか?」
「世界中を旅行したい」
正直にそう告げると、
「よし!それで充分だ!」
と父は言い、通知表を閉じた。
「どんなに成績が悪くても、お前が青年らしい夢を持っているのなら、それで父さんは満足だ。それ以上、何も望むものはない」
父は笑って言った。
父さんは子供に「優秀な学力」なんて求めていなかったんだね。青年らしい大志を抱いていること、そして我が子がそれを成し遂げるだけの健康な身体を持っていること、それだけで本当に充分だったんだね。
父さん、あの時は本当にありがとう。「1と「2」しかない通知表を見てもまったく動じず、ありのままの息子を認めてくれたその姿勢に、 本当に救われたよ。
松井 裕子(47) 茨城県
子どもの頃、父のタバコを買いに行くことが、ちょっとした小遣い稼ぎだった。目当ての銘柄はハイライト、当時百五十円。私に二百円を渡した父は、釣銭はとっておけ、と言った。しばらくしてから、父は銘柄をマイルドセブンに変えた。ハイライトの時は、ミスすることなく自動販売機のボタンを押すことができた私は、名前の似ていたセブンスター を二回ぐらい買って帰ったことがあった。父は、こっちじゃないんだけどなあ、と口をへの字にして受けとったが、そんな時は子ども心に私はいつもの小遣いを遠慮したものだった。
父はとにかくヘビースモーカーだった。私の弟曰く、一本火を点けたかと思うと、あっという間に灰皿に押し付けてしまう贅沢な吸い方で、もったいないのだそうだ。そんな弟は自分の娘が生まれたら、ピタッと禁煙したが。私達兄弟三人が独立し一緒に暮らすことがなくなった後も、父は変わらずタバコをくわえ続けていた。
ある日父を訪ねた時、よく行くいつものタバコの自動販売機の前での出来事について父から聞いた。
高齢の女性が財布から小銭を探しているようだった。しばらく待っていたが、なかなか 小銭が揃わないらしい。父は後から声をかけた。
「タバコを吸われるんですね」
すると女性は、
「すみませんね、遅くてね」
と言いながら、やっと彼女は目当てのタバコを購入することができた。近くのベンチで二人並んで座って一服。聞けば、女性は五年ほど前から愛煙家になったとのこと。病床の旦那さんから、
「お前、俺が死んだら気晴らしにタバコ覚えてみたらどうだ」
の言葉がきっかけだということ。思えばあれは、遺言かしらと思い出し笑いをし、寂しさを伴いながらもそれ以来、たまにタバコを買いに来るということ。普段無口な父が、そんな風に人とコミュニケーョンをとるなんて意外に感じた。
健康増進法の成立、受動喫煙対策が二〇二〇年より全面施行、相次ぐタバコ価格の値上 げ、愛煙家の人々は、ますます肩身がせまくなってしまいそうだ。生命として限界を迎えているという父の主治医の言葉を聞き、もうタバコをくわえることがなくなった父の寝顔を見ながら、私はタバコが取り持った幼い頃の思い出や、父がタバコを介した人との関わりの一端について、ぼんやりと考えていた。
星野 ゆかり(32) 静岡県
「写真撮ってよ、パパ!」
満開の桜トンネル。紺碧の海。赤く燃える紅葉。白銀の雪景色。どんなに美しい風景を背にして私がねだっても、一眼レフをぶら下さげた父はいつも首を横に振ってばかり。
「俺は風景カメラマンだ。人物は撮らないよ」
それが決まり文句。
「一人娘よりも景色の方が大事なの?」
幼い頃から私は不満だった。だから家族旅行に行っても、思春期を迎える頃には父に「写真を撮って」と頼まなくなっていた。
そして、 大人になった私は次第に家族と出掛ける事もなくなっていった。
一年前。三十年間暮らした故郷を遠く離れた地へ私は嫁いだ。
嫁入り前夜、居間で母としんみり語っていると、父が沢山の冊子を抱えて現れた。
「嫁入り道具だ。持っていけ」
照れ隠しなのか、無愛想に手渡す父。
一目で手作りと分かる製本。丁寧に綴られた装丁には、全て同じ文字が印字されていた。
『ゆかりの十二ヶ月』
唯一違うのは元号だけ。平成元年から始まり、平成三十年まで一年も欠かさず揃っていた。驚きながら中を開くと…
それは、父手製のオリジナルカレンダーだった。春夏秋冬、三十年分の十二ヶ月の『私』がいた。母と手を繋いで桜並木を歩く入園式の私。祖父と海で西瓜割りをしている小学生の私、中学の体育祭でリレーのアンカーを走る私。旧友とはしゃぐ成人式の振袖姿の私。
そこには、カメラ目線の私は一人もいない。全て父の隠し撮り写真。だからこそ、自然な笑顔。父だから娘の一番『いい顔』を知っていたのだ。
大きくプリントされた私の写真の下の、カレンダーの日付欄に印字された文字は…
「入学式」「運動会」「テニスの試合」「卒業式」「結納」…
全て私に纏わる行事で埋め尽くされていた。
父の愛情に彩られた十二ヶ月×三十年。
「なーんだ、風景よりも私の方が大事だったんじゃん」
世界でただ一つだけの手作りカレンダーを抱き締めながら、三十年越しに父の愛情を泣き笑いで痛感した。
「ありがとう、パパ」
2019年入賞作品
「あの質問」小松崎 有美(34)埼玉県
「パパがぼくにおしえてくれたこと」図司 智哉(5歳)愛知県
「私とおとうさん」堀田 由香(40)神奈川県
「父へ贈る言葉」新徳 由利香(24)鹿児島県
「父の宝物」高村 晴美(61)北海道
「父のせなかにありがとう」大宮 芽生(11)千葉県
「感謝の心」𠮷田 真彩(15)愛知県
「父の愛情表現」横川 綾香(17)青森県
小松崎 有美(34) 埼玉県
思いがけない妊娠が発覚した。私が二十四歳の時だった。一番戸惑ったのは主人だった。何せ女手一つで育てられた一人息子である。父親とはどういうものなのか想像でしかわからなかった。ある時、主人が言い出した。
「ねえ、父親って必要なの。」
「え・・。」
私は答えに詰まった。そして絞り出すように言った。
「よくわかんない。うちなんて、判子押す人って感じだったし。」
二人の間に微妙な空気が流れた。
思い返せば幼少期、父はいわゆる仕事人だった。休日といえるものがなく、ほとんど家に居なかった。何をしている人かもよくわからなかった。ただ、仕事で相当くたくたになっていることは知っていた。
父が帰宅し、せっかく温めなおしたおかずもそのままレンジで朝を迎えることは日常茶飯事だった。歳を重ねるにつれ、洗面台に胃薬や漢方薬、冷蔵庫には栄養ドリンクが増えていった。なかなか会えない父とのパイプ役は母だった。塾に行きたい、留学したい、一人暮らしをしたい、結婚したい。そんな時に父は大抵いない。だから母が、
「私じゃわからないから、あとでお父さんに聞いておくわ。」
と言い、翌日には父の捺印した書類がテーブルに置いてあった。
妊娠がわかってから、これまで全く家事をしなかった主人が台所に立ちだした。正直、私がやった方が早かった。それでも、
「俺がやるよ。」
と言われると、両目をつぶってありがとうと言った。
ある日、主人が一冊の本を買ってきた。タイトルは、「イクメンに、俺はなる!」だった。主人の必死さが伝わった。父を知らない人間が父になるということ。これは主人にとって大きなハードルだったのだ。
あれよあれよと言う間に、息子が生まれ、狭いアパートでの三人の暮らしが始まった。はじめはとても新鮮だった。幸せを家族で囲むテーブルは、まるく温かかった。
しかし、二カ月が過ぎた頃、初めての育児のプレッシャーや寝不足から夫婦ともども体調を崩した。さらに追いうちをかけるように、息子は毎晩のように泣き続けた。そんな日が何日も続き、二人の間に会話も、食事もなくなっていった。
そして事件が起きた。深夜零時をまわるというのに、息子が一時間以上泣き止まない。私もめまいが始まった。こんな時に限って主人も帰って来ない。藁をもすがる思いで電話をする。しかし、電源さえ入っていない。これはおかしい。
慌てて外に飛び出るとアパートの階段でしゃがみ込む主人の姿があった。身長百八十センチの体は肩を落とし、小さくなっていた。
「死にたい」
この時はっきりわかった。主人が産後うつになってしまったと。
泣く泣く、母に電話をかけると、
「来なさいよ。お父さんも、ほら、いいわよね。」
「いいんじゃないか。」
電話口でボソッと声がした。父だった。
私たちは逃げるようにアパートを出た。しかし、主人にはかける言葉がなかった。いい父親になろうと必死になり、いつの間にか家庭が窮屈な場所になってしまったのだろう。
そんな私たちの空気を感じ取ってか、父が主人だけを和室に通した。下を向く主人に父は何も言わずにお茶を出した。会話の無い時間が流れて、とうとう主人が大粒の涙を見せた。私は、自責の念にかられた。大事な人にこんな思いをさせ、妻として不甲斐ないと。
主人の涙もまた、自分を責めていた。
すると父が、
「いいんじゃないか。ここにいて。」
そう言って、主人の肩を抱いた。主人は、すみませんと、うなずいた。血のつながりはないけれど、心のつながりがあった。この時主人に「父」ができた。そして父には「息子」ができた。
こうして「息子」と娘は、子供の成長と共にパパとママになっていった。父は、時に見守り、時に手を貸してくれた。
「お前もあの頃はこんなんだったよ。」
そう父に言われ、愛されていたのだと感じた。
居候も半年を迎えようとした時、私たちは小さな一軒家を見つけた。今度こそ自分たちで家庭をつくっていこうと思い始めた。父に告げようと諸々の書類を準備した。しかしその日は父に会えなかった。翌朝も会えなかった。でも、書類に父の捺印があった。驚いた。でも嬉しかった。これは、「いいんじゃないか。やってみろ。」という父のメッセージだと思った。
その印を見ながら思った。あの頃も今も、判子を押す父の手は、私の背中を押す手なのだと。そして、ふと主人のあの質問を思い出した。
「ねえ、父親って必要なの。」
今ならこう言える。もちろんよ、と。だって、迷ったら、背中を押すのはいつも父だからね。
図司 智哉(5歳) 愛知県
パパはいたいところばかりある。パパのいたいところは、ひじとあたまとこしとあしのつけねだときいた。それに、てにはまめがいっぱいある。どうしてまめができたかというと、でんせんをひっぱったからだ。パパのおしごとは、でんせんをひっぱってきて、ちゅうもんのとおりにきるしごとだ。パパは、まいにちうんどうかいをしているようだとわらっていう。それをきいてぼくがおもったことは、おしごとたいへんだろうなということだ。
このまえ、いえで、パパはじてんしゃがパンクしたのでしゅうりをしていた。つうきんはじてんしゃがなおらないとこまる。それでてをまっくろにしてタイヤをかえていた。ぼくはそばでみながらおうえんしていた。
ぼくがパパにおしえてもらっていることがふたつある。ひとつはうんどうで、もうひとつはえをかくことだ。
スクワットやいすおこしなど、ぼくがつよくなるために、へやでできるトレーニングをかんがえてくれた。ぼくはパパにかんしゃしている。ぼくがかぜをひいたときはいつも、パパはトレーニングをするようにいう。それをしたら、かぜがよくなってひどくならずにすんだ。それだけじゃない。ぼくはころんであしをけがしていっしゅうかんいたくてあるけなかった。そのときパパはがんばってあるけといった。ぼくはパパのことばでまたあるけるようになった。
このあいだ、スケッチブックをパパがぼくのためにかってくれた。ぼくがくわがたやきょうりゅうのえをかくと、パパは、
「おう、もっともっとかけ。すばらしい。」
といった。ぼくはうれしいきもちになった。そしてもっとえをかこうとおもった。
ぼくは、
「パパ、いつもおそくまではたらいてくれてありがとう。」
と、パパにいう。
「おう、ありがとう。」
と、パパがいう。
おおきくなったらぼくは、パパに、
「これはいい。」
とみとめてもらえるようなえをかいてパパをよろこばせたい。
堀田 由香(40) 神奈川県
あの時の私にとって、両親は厭わしい存在でしかなかった。
今から二十二年前。十八だった私は、進学という言い訳を引っさげて家を飛び出した。それこそ家を出ようと決意したのは、小学生の頃だった。
片付けが苦手で自己中の性格の母は、いつも私に周囲の人の愚痴を言い、綺麗好きの嫌いがある父は、片付かない家や母の奔放さに腹を立て、酒が入ると手近にあるものを投げつけては、時折窓を壊した。
私にはそんな両親が厭わしく、すぐ物に怒りをぶつける父が恐ろしかった。
父の苛立ちは、当時の私にしてみればいつも突然で、私はたびたび耳をふさいで布団に隠れる夜を過ごした。
投げた何かが窓ガラスを壊し、その破片が散らばる。それは、日常とまでは言わないものの、慣れた光景だった。
高校生のある日、発端が何かはもう覚えてもいないけれど、父に反論すると包丁が飛んできた。
泣き叫んで私に覆いかぶさる母。
たまたま夕食後に母がリンゴを剥いた果物ナイフ。
それが手近にあっただけ。
父は、私の横、畳に突き刺さったそれを拾い上げ、もう一度投げつけた。
そのナイフは再び畳に突き刺さり、結局はだれもけがなどしなかったけれど。
私の中で何かが壊れる音がした。
翌朝畳を見ると、そこには2カ所の傷跡が残っていた。
父も母も、昨日のことは何もなかったかのように平然といつもどおりを振る舞う。
車なしではどこにも行けない封鎖された田舎の町。私は自分の感情をごまかして、その出来事に蓋をした。
窓ガラスが割れて破片が散らばるのは、日常とまでは言わないものの、慣れた光景。
きっとこれも同じような事。
だから笑顔を貼り付けてカウントダウンすればいい。
ここを出ていくまで、あともう少しの辛抱。
高校卒業後、私はやっと嫌で嫌で仕方のなかった家を出た。
学費も家賃も生活費さえも脛をかじって。けれどそれを当然の権利のように甘えて。
全ては家族、両親から離れるため。
進学先は、あえて実家から四〇キロ近くも離れた都心の学校を選び、成人して社会人になると、ほとんど実家には寄り付かなくなった。
偶に帰っても数日の滞在。そしてまた数年訪れない。それを十年以上も繰り返した。
その頃にはもう、父を恐いとは思わなくなっていた。
三十歳で結婚を決めたとき、父は彼にお願いしますと言って頭を下げた。
結婚式でバージンロードを共に歩く父が、顔中を涙と鼻水で濡らしながら「幸せに」と繰り返す。どこかで見たようなお決まりのシュエ―ション。別に何かを図ったわけじゃない。
私はあなたに父親としての名シーンを求めたわけじゃない。
けれど、年甲斐もなく泣きじゃくる父は、記憶にある父とあまりにも違っていた。
二年後、初孫を抱いた父は優しいおじいちゃんの顔で写真におさまり、更に半年後、その写真は遺影になった。
来春、初孫の娘は小学生になる。
もうすぐ、父の七回忌がやってくる。
親になって思うのは、子どもはなんて自分に近いのだろうかということ。
距離も感情も少しも離れていられない。
優しい親でいたいのに、それだけでいさせてもらえない。
けれど優しい言葉をかけるのは、他人でもできると気づいてしまった。
うわべだけの優しい他人と、感情的な家族の距離。
結局のところ、あんなにも厭わしく思っていた親と、内面的にはほとんど変わらないであろう自分。
あぁ、なんて身勝手で自己中心的なんだろう。
もしかしたら父も、本当は優しい父親になりたかったのかもしれない。
ただ、人間らしい人だっただけだ。
川底の石が年月を重ねて丸くなるように、きっと父も、十年という歳月で変わったのかもしれない。
自分が親になって、初めて親の気持ちがわかる。
そんな事を誰かが言っていたけれど、これはきっと本当だった。
お父さん。
私は今、お父さんが言ってくれた通り幸せでいるよ。
お父さん。
きっと、ずっと、思い出す。
新徳 由利香(24) 鹿児島県
「私、卒業したら東京に行くから。」
まだ、暑さの残る十月の半ば。当時、鹿児島に住んでいた専門学生の私は父にその一言を告げたあと左頬を殴られた。赤くなった頬から伝わる熱い痛みと、昔からの夢だった上京を否定されたことによる悲しさの痛み。その両方が一気に目から溢れて止まらなかった。十九にもなって泣くなんて。そんな気持ちが心の隅にある中、仲裁に入った母にすがりつくように泣きわめいた。
その日以来、父とは口を利かなくなった。
朝食や夕食の時間は顔を合わせないように時間をずらし、「おはよう」や「おやすみ」の一言すら自然と言わなくなってしまった。家の中の雰囲気は徐々に暗くなり、まるでお葬式の様な日々が過ぎ去った。
年が明けて三月。お互いに口を利かないまま春を迎えた。私は父の事など知らないと言わんばかりの態度で荷造りを済ませ、いよいよ出発の日を目前としていた。親戚や友達にしばしの別れを告げ、気持ちは上京によるワクワク感でいっぱいだった。
出発の日、空港に父の姿はなかった。期待などしていなかったが、最後まで認められることはなかったのだとほんの少し気分が沈んだ。
「行ってくるね。」
そういって母に手を振り、搭乗ゲートへ足を踏み出した。「ピコン」と携帯からメール受信の音が鳴った。待合椅子座り携帯を開くと、「いってらっしゃい。」その一言だけが画面に打ち込まれていた。父からだ。その数十分後に今度は少し長めの文章が私の携帯へと届いた。「大変だろうが、頑張れよ。お前が決めた道だ。父さんはお前の味方だから、何かあったらすぐに電話しなさい。」携帯に不慣れな父が一生懸命打った文字は瞳に留まった涙によってよく読めなかった。けれど、とても心が温かくなって、鼻をすすりながら何十回も読み返した。
あれから四年が経ち、私は地元へと帰ってきた。隣に父は居ないが、このコンクールを機に長く言えずにいたことを伝えようと思う。「お父さん、あの時は自分勝手な行動をしてしまってごめんなさい。そしてこの四年間、私の味方で居続けてくれてありがとう。これからも大好きです。」
高村 晴美(61) 北海道
93歳の父にとって一番の宝物、それは母です。
施設に入って二年目の冬、母は病に倒れました。退院後、母は自分の力ではベッドから起き上がること、歩くことができなくなりました。要介護5となった姿は、娘の私の目から見ても哀れでした。
しかし、父は気丈でした。
ヘルパーさんの手をかりて、オムツ替え、着替え、車イスへの移動で父のそばに来た母に対して、耳に口を近づけ「おはよう」と声をかけるその様子は、一天のくもりもない深い愛情のように感じられました。
父はおいしいものを前にすると、「お前さん、食べなさい」と母に言います。
好き嫌いの無い、少し太め(私から見ると少しダイエットした方が・・・)の母が食べるのを、横で嬉しそうに見ている父。
父にとって、自分の妻が笑顔でいることが一番の幸せなのかもしれません。
昨年父は、二度肺炎で入院しました。
病室で父は、「お母さん、どうしている?」と行く度、尋ねました。
母をひとり残して、死ねない、と思ったのでしょうか。
父は無事、退院しました。今の私の夢は、東京オリンピックを両親と共に見る事です。
お父さん、それまでお母さんと頑張って、生きていてください。
大宮 芽生(11) 千葉県
私の父は、コンピューターの仕事をしている。7時半くらいに家を出て、大崎まで行く。私はそんな父を、毎朝、「いってらっしゃい」とか「気をつけて」という一言を父のせなかに向かって言う。そのたびに、父はふり向き、「芽生も学校がんばれよ」とか「ママの手伝いするんだよ」という力がわく一言をくれる。
父は、5人の子どものお父さんである。だから、母の負担をへらすため、毎朝、家族7人分のせんたくをしたり、母が仕事の時は、ごはんをつくったり、時には、遊園地につれていってくれる。だから、家族みんなは、父の事が大好きだ。
そんなある日、母が、おなかの赤ちゃんのために、手術を受けることになった。実は、その手術の日、家族で山梨県の河口湖に行くことになっていた。だから、あきらめた方がいいと言ったのだが、みんながおどろいたことに、父が
「いやオレが子ども5人を連れていく!」
と言ったのだ。そのため、旅行は中止することなく山梨県に行った。
予想していた通り、末っ子をおぶい、おさないこをベビーカーに乗せ、三人をベビーカーにつかまらせ、堂々と歩く父の姿に通り過ぎる人がじろじろ見る。だが、父は気にすることなく歩き続けるすがたに私はかっこいい!こんなにやさしくて、心が広い父に初めてそう気づいたのだった。
旅行も無事に終え、母の待つ家に帰ると、なぜだかほっとしてしまった。その理由は、今になって思う。それは、初めての父と子どもだけの旅行に、予想以上に父がはりきっていたからだろうと。
私はまだ父に甘えているが、いずれ親ばなれすると思う。その時は、この旅行のことを思い出したい。
今日も私は、父のせに向かって一言かける。
𠮷田 真彩(15) 愛知県
昔、私は急に手が動かしにくい時期があった。何だろうと思い病院へ行って検査をしたら脳の病気が見つかった。
昔の父はすぐに怒らせると外に出し、謝るまで家に入れてくれないとても怖い人だった。でも病気が見つかってからはとても優しくしてくれて、手術がいやにならないように怒らないでくれたり、たくさん遊んでくれたりしました。
手術の日は朝が早くて休憩するひまがないまま始まりました。私は早くおわりたいので早く行こうとすると、父が抱きしめながら「がんばって行ってこい!」と言ってくれてがんばろうという気になりました。
手術は10何時間はかかって目が覚めた時にはすごく痛かったです。まわりを見た時に机がおいてあり、大好きなハンバーグがありました。どこで買ったのかきいたら、
「ハンバーグが売り切れだったからお店の人に子供が手術していてどうしてもハンバーグが大好きなんです。」
と言ったらお店の人がすぐ作ってくれたそうです。
私はみんなの支えがあって生きているんだと思うとすごくうれしくなりました。
もし父がもう少し年を取って病気になった時には、一番に動いて支えられる人になりたいです。
「父、ありがとう。これからも多変だと思うけど、よろしくおねがいします。」
横川 綾香(17) 青森県
私の顔は父にそっくりだ。生まれた瞬間から…いや、母のお腹の中に居る時から瓜二つ。眉の生え方までもが父譲りなのだ。私は、二重の母に似たかったと思うし、父に似ていると言われることに複雑な感情を抱く。
父は、怒ると当然怖いが普段はいつもユーモアで、私のことを全力で応援してくれている。
私が母に怒られていると、父は最後に必ず「あんまりいう事聞かないと、チューするからな。」と言う。気持ち悪いんだけどと、心の中で思うが、その一言で張り詰めた空気が瞬時に和むのだった。
そして、父は母のことがとても好きで、いつも大切にしている。母も、「パパ、足が臭いし、もぉ~。」などと言っているが、父の事を好きなんだなあというのが娘の私に伝わってくる。父も母も互いに幸せそうに見える。だから私も幸せな気持ちとなる。
そう感じるきっかけとなったのは、父が会社で怪我をして、三カ月半も入院することとなったからだ。それは突然の出来事で、今まで当たり前だった日常が、当たり前ではなくなった瞬間だった。ちょうどクリスマスやお正月・私の誕生日・母の誕生日など、いつも家族で過ごしていたイベントの時期で、父が居ないことによって静かな時を過ごした。
怪我をしたのは利き手で、何をするにも不自由な父の介助のため、母は仕事をしながらも父の病室へ通う日々が続いた。母は疲れているはずなのに、父に会いに行く時は嬉しそうに見えた。
父は退院の日、母はそれまでの不安や心細さが一気に解き放された様に、高熱を出し、一週間ほども寝込んだ。父は寄り添い優しく看病していた。母は安心した表情で、父が傍に居る事が嬉しそうだった。
そういう両親の姿は、とても微笑ましく感じ私も将来、父の様に私を大切にしてくれる人に出会い、愛情に包まれた家族をつくりたいと思う。
鏡をよ~く見る。うん、やっぱり私の顔は父にそっくりだ。複雑な感情は少し薄れ、愛情を覚える。
普段は恥ずかしくて言えないけど…
「パパ、大好きだよ。いつもありがとう」
2018年入賞作品
「僕の父の背中」田中 雄大(28)
「お返し」大西 賢(44)東京都
「私の四人のおとうさんへ」藤本 ゆきな(27)愛知県
「父のジャパニーズ・イングリッシュ」中関 令美(19)東京都
「今頃・今さら」丸山 かおり(46)大阪府
「父の呼び名」根岸 亜矢(32)埼玉県
「おいしい記憶」中島 陽子(45)大阪府
田中 雄大(28)
父は、僕が幼少期の頃に、いつもお酒を飲んでは家で暴れていた。
その頃は、世界で一番好きな母を虐める、僕のまだ小さな世界で一番の悪者で一番怖い存在だった。
僕が八歳の頃に父は、酔っぱらって祖父を殴った。父は、いつも口ぐせのように祖父を尊敬していると言っていた。その日、酔いが醒めると父は何処かへ行ったきり帰って来なかった。
祖父を殴った日から父は、お酒を断ち家族思いの父に変わり、僕の小さな世界で一番のヒーローになった。父はお酒を断ってから、毎週僕と遊んでくれるようになり、毎日のように仕事が終わると僕が好きなかけっこを教えてくれた。
僕は、父がまだお酒を飲んでいた小学生低学年の頃の運動会では、最下位しかとったことがなく走ることがコンプレックスになっていた。しかし、父がお酒を断ってから、かけっこの練習を一緒にしてくれたことで、その年の運動会では、ぶっちぎりの一位を取るようになった。
僕は、父とのかけっこの時間が大好きだった。今思うとずっと父と遊んでほしかった気持ちが、父がお酒を断ってから、今まで我慢していた気持ちが溢れ出したのだと思う。
僕は中学では陸上部に入った。大好きな父が教えてくれたかけっこをもっと得意にしたくなったからだ。
中学になっても変わらず父は、かけっこを教えてくれた。そのおかげもあり、中学では県大会2位になり、さらにレベルの高い地域で陸上をしたくなった。
僕はさらに高いレベルの地域で陸上をするために上京を決意し、父とともに陸上の強豪校に入学をお願いしに行った。営業をしていて弁がたつ父が必死に監督に頼み込んでくれたおかげで入学が決まった。
高校では、かけっこから、走る競技にレベルアップしたこともあり、父から走り方を教わることはなくなった。
高校1年生の終わりに、上下関係やスポーツ強豪校特有の練習が辛く、父にもう退部したいと相談した。
父は一瞬悲しそうな表情になったものの、すぐに顔を上げ、僕に「一度逃げることを覚えると次も逃げるぞ。」と言った。
この父の言葉が僕には重く、後の人生でずっと大切にしている宝物になった。
この言葉は、かつて父がお酒を中々断てず、葛藤していた時に、ずっと自分に言い聞かせていた言葉だと高校生ながらに気づいた。
父は、酒を飲んでいるときも悪い父ではなかった。父は、この言葉を自分に言い聞かせながら、お酒を飲んでしまう自分と家族を思う気持ちで葛藤していたんだと思う。僕は、もう一度逃げずに頑張ろうと決めた。
それから僕の高校がリレー種目でインターハイを二連覇し、僕が高校三年生になると高校史上初の三連覇に三走として挑戦することとなった。
そして、きたるインターハイ決勝。ついにこの時がやってきた。父がお酒を断ってから、二人でかけっこを練習した大切な思い出が、いまや全国で一番かけっこが速くなることに挑戦ができている。
人生で初めて胸が躍動した。なんとしても金メダルとトロフィーを父にわたしたい。その一心でスタートへ向かった。
結果は三位。銅メダルであった。父は会場で見てくれていた。その日の夜に父が泣くところを始めてみた。僕の走りに感動して泣いてくれたのだ。
父が、高校一年生の頃に辞めたいといったときにすごく迷ったと言った。ただ、辞めなくて良かったな。父にとっては、この銅メダルは金メダルと同じだ。ありがとう。と言った。父がお酒を断って十年目の出来事であった。
それから約五年の月日が経ち、僕は大学を卒業し、総合商社の営業で全国を駆け回っていた。
ある日、利益ばかりを追う日々に心が追い付かなくなった。僕の仕事のやり甲斐はお金ではないと感じつつずっと働いていた。
社会人となり、二年目の夏の夜に、会社の寮の近くの公園に行き、ブランコに腰掛けながら思いに老けた。僕は、今の仕事が好きなのかと。
そんな時に父がお酒を飲んでいた頃にお世話になった地域の方や、断酒会の方、学校の先生などを思い出した。僕は、あの頃にお世話になったように、今度は僕が地域の役に立ちたいと思い市役所職員に転職することに決めた。
市役所職員を目指した採用試験一年目。これまでスポーツばかりやってきたこともあり、勉強でほかの受験生に追いつけず、とにかく落ちた。この時はもう市役所職員として働きたくてたまらなくなっていた。
そして一年公務員試験浪人をして、市役所職員を目指して二年目。父がお酒を飲んでいた頃に住んでいた市役所の募集に、スポーツで結果を出した人の採用枠というものがあった。その募集の条件が、全国大会三位以内入賞であったのだ。
父が、僕が高校生の頃に「いつか、この経験がお前を助けてくれる。」という言葉が現実となった。
僕は、この時に受かった市役所に入庁して今年で五年目。今、この大好きな仕事ができているのも、父があの時にかけてくれた言葉があったからだ。
僕は、酒を断ち、一生懸命お父さんをしてくれた父を尊敬している。お酒という父を悪者に変える魔物に打ち勝ち、僕のヒーローになってくれた父。僕の道しるべになり、いつも教えてくれた父。ありがとう。今度は、僕が父となる番となったけれど、僕は父のような父になりたい。
大西 賢(44) 東京都
中学二年のバレンタインデーの日に、チョコをもらった。受け取った瞬間、ものすごくドキドキしたのを覚えている。チョコをくれたのはカナコさんという優等生の女の子で、私のことを慕ってくれていることを知ってからはまともに顔も見られなくなった。
(ホワイトデーのお返し、どうしよう)
真っ先にそれを思った。何しろ中学二年である。同級生たちからはやしたてられるのはほぼ間違いなかった。カナコさんはこっそり渡してくれたが、私も同じようにこっそり返せるだろうか。
十四歳の私はだんだん怖くなってきた。お返しを渡すところを見られて同級生たちに茶化されるのも怖いし、それによってカナコさんを傷つけてしまうのも怖かった。お返しをうまく渡せてカナコさんと仲良くなっていくのも、それはそれで怖かった。
(お返し、渡すのをやめよう)
私はそう決めた。たかがバレンタインじゃないか。もうすぐ受験だし、こんなことに気を取られるのは良くない‥。そう思うことにして、私はお返しのことは忘れることにした。
ところがチョコの一件は妹から母へ、そして母から父へいつの間にか伝わっていた。
「お前、ホワイトデーのお返しはどうするんだ?」
ホワイトデーの一週間ほど前に父からそう聞かれて、私はうろたえた。だが、ごまかしてもしょうがない。正直に言った。
「俺、お返しは渡さないよ」
すると、普段は優しい父が厳しい口調で切り出した。
「相手の女の子の立場を考えなさい!どれだけ勇気を振り絞ってお前にチョコを渡したと思ってるんだ!お返しを渡すのが恥ずかしい気持ちは分かるが、どんな渡し方でもいい。必ずお返しを渡してこい!」
いつもはおっとりしている父が厳しい剣幕で言ったので、びっくりしてしまった。
その後、父は落ち着いた口調でこんなことを話した。何かをいただいたら必ずお返しを渡す。それは、これからお前(私のことだ)が社会で生きていくために、必ず守らなければならないルールだ。それは単なる物品の授受ではない。相手の気持ち、相手の優しさを受け止め、それに感謝を表すという、人としてやっておくべき決まり事なのだ。
そんなことを言った後、周りに母がいないことを確かめながら、父は言った。
「父さんと母さんは全然夫婦ゲンカしないだろう?なぜかというと、母さんから何かをしてもらったら、俺は必ずお返しをしているからだ。『ありがとう』という言葉でもいい。そっと手を繋ぐのでもいい。とにかく相手に優しくしてもらったら、必ずそれに応える。そうしているから父さんと母さんはいつも仲良しなんだ」
それを聞いてなるほどなと思った。確かに父と母はいつも仲良しで、夫婦ゲンカというものは一切しない。その裏には、きちんとしたルールが守られているからなのか。
ホワイトデーの日、緊張で胸が張り裂けそうななか、私は校庭の片隅でカナコさんにキャンデーの詰め合わせを渡した。カナコさんは真っ赤な顔をして、黙って受け取ってくれた。
父とのあの時の対話は、私に社会のルール、そして人間同士の交流の仕方を教えてくれる、とても貴重なものだった。
あれから三十年近くたち、カナコさんではない女性と私は結婚したが、夫婦ゲンカをすることもなく、仲良く過ごしている。全て父のおかげである。
父さん、あのときはありがとう。
藤本 ゆきな(27) 愛知県
お父さん。お父さんが病気だったと知ったのは、会えなくなって五年以上たってからでした。元々、ベタベタ甘やかすのは得意でなかったのか、少しはなれて見守ってくれていたお父さん。おんぶやだっこに肩車。おねだりするのが恥ずかしくて、なんども寝たふりをして、運んで貰うのを待っていたんだよ。気づいていたのか、いなかったのか。
「布団で寝なさい。風邪ひくよ。」
と、いつもだっこして運んでくれたね。目を閉じた私に、「重くなったな」とか「可愛くなってきた」とか。どんな顔で言っていたのかな。薄目を開けたら、寝たふりがバレそうで、結局一度も確認できなかったな。アルバムやビデオの中のお父さんは、いつも不器用に笑っています。私の不細工な笑顔は、絶対お父さんに似たんだと、今でも鏡を見るたび思います。約六年半。短い間だったけど、私はお父さんの子に生まれて幸せでした。愛してくれて、ありがとう。
伯父さん。伯父さんは、我が家が母子家庭になるとすぐ、当たり前のようにお父さん役になってくれましたね。学校行事への参加や、進学時の保証人、果ては結納代わりの食事会にも、当然のように参加してくれましたね。伯父さん一家と我が家で、子供は全部で六人。私が一番年上だから、お父さんとしての初めては、私が一番多くもらってしまったかもしれません。自分の子どもと分け隔てなく、いつも優しく、厳しく、育ててくれましたね。八年にも及ぶがんとの闘病中、じぶんがどんなに辛くても、どんなに苦しくても、いつだって周りを気遣って、最後の最後まで、温かく接してくれましたね。伯父さんから、大切な人たちを守る強さと優しさを学びました。育ててくれて、ありがとう。
おじいちゃん。「朝はおはよう」「お世話になるときはお願いします」「何かしてもらったらありがとう」「悪いことをしたらごめんなさい」「戸はピシッと閉める」「人のワル(悪口)は言わない」「背筋を伸ばして行儀よく」我が家の骨として、かわいい孫にもしっかり厳しく、“当たり前”を教えてくれましたね。中学・高校と不登校になった私に、きっと聞きたい事や言いたい事、たくさんあったでしょう。でも、自分からは何も聞かず、何も言わず、ただただ信じて待ってくれましたね。ある日、泣きながら早退して部屋にこもって居たら、
「こんなもんしかできんで悪いけど」
って、お昼ご飯をもってきてくれましたね。白いご飯と、厚切り焼の焼きハム、それから、黄身と白身が混ざり切っていないスクランブルエッグ。おじいちゃんの世代の男性が、台所に立つ意味、その優しさに、今になってやっと気がつけました。おじいちゃんが作ってくれた、私の中の“当たり前”は、今も私を真っすぐ支えてくれているよ。信じて、支えて、教えて、見守って。私の芯を作ってくれて、ありがとう。
お義父さん。第一声は「誰!」でしたね。初めてご挨拶させていただいた日、玄関を開けるなり「なんだ、フラれたのか。」と不機嫌そうに呟いたお義父さん。大きな夫が陰になって、見えなかった小さな私。ドキドキしながら「おじゃまします」と顔を覗かせると、
「わっ!誰!」とさらに不機嫌顔に。「お前が無駄にでかいから見えなかった」と理不尽に夫を責めながら、ますます皺が寄る眉間。
「楽しみにしていたのにダメになったかと思った」「さっきはびっくりしただけで怒ったわけじゃない」と呟きながら、これでもかというほどお茶とお菓子を出してくださったお義父さん。不機嫌顔が照れ隠しなのだとわかるまで、時間はかかりませんでした。多くは語らないけれど、お家にお邪魔すると必ず玄関まで見送りに立ち「またおいでね」と声をかけてくれる。娘を連れて帰ると、梅干しみたいな笑顔で遊んでくれる。私のことも、もう家族なんだと、背中でそう伝えてくれる。溢れる愛情を日々感じ、感謝しています。
私の四人のおとうさん。私はとても幸せです。私の大切なおとうさん。私のおとうさんになってくれて、本当にありがとう。
中関 令美(19) 東京都
「ホワッツ・ヨア・ネーム?」
父は初めて会う私の友達に聞く。それに対していつも私は即座に、
「ホワッツじゃなくて、ワッツ!もう、ちゃんと英語話して!」
と大声で怒鳴る。
「ごめん」
と言って頭をかく父。
私は父の仕事の関係で幼稚園、小学校、そして高校三年間をアメリカのニューヨーク州で過ごした。六歳になった秋、初めてアメリカに住むことになった時、私の英語力はほぼゼロ。私も初めて会うクラスメートに
「ホワッツ・ヨア・テーム?」
と聞いていた。しかし、月日はたち、英語を幼稚園で遊びながら覚えてしまった私は、英語を流暢に話すようになった。英語が上達して、アメリカ人のように英語を話せるようになった私は、父のジャパニーズ・イングリッシュが嫌でたまらなかった。父がレストランでもう一本フォークを頼むと、コーク(コーラ)を店員さんが持ってきた。タクシーで家に帰ろうとすると、RとLの発音の違いが苦手な父は、当時住んでいた家がある道、「ベーロード」ではなく、全く違う町の「バーリーロード」に連れてかれた。そんな英語が喋れない父を私は恥ずかしく思い
「私の友達と英語で喋らないで!」
と父に向かって怒鳴ったこともあった。父はいつも小さな声で、
「ごめん。」
と謝った。
私がアメリカの高校を卒業したと同時に父は日本に戻ることになった。帰国まで数週間のある日、父は私と妹をニューヨークで働いていたオフィスに招いてくれた。
「あんなに英語が喋れないのに、一体どうやって外国人の社員と仕事をしているのかな?大丈夫なのかな?」
と妹と半分父のことをバカにして笑いながら会社に向かった。しかし、その日、私が見た父の働く姿が私の考え方を大きく変えた。
オフィスに入ると、色々な国の出身の方が私たちを笑顔で出迎えてくれた。父のデスクの前に座っていたのは、日本人の同僚。隣で働くのはインド系の方。斜め前に座っていたのは中国人。後ろのデスクでコーとーを片手に私たちに挨拶をしてくれたのは、アメリカ人の会社員だった。なんてグローバルなオフィスなのだろう。父はこれから会議だというので特別に参加させてもらった。丸いテーブルのまわりに座る国際色豊かな会社員。右からはインドのなまりの強い英語、左からは中国語なまりの英語、テキサス出身の父の同僚は少しだけ南部のアクセントの英語で話していた。色々な英語が飛び交う。会議のリ―ダー的存在の父のジャパニーズ・イングリッシュが一番よく聞こえた。いつもだったら、
「英語下手だから、喋らないで!」
と叫びたくなるところだが、なぜかその時は気にならなかった。グローバルな環境で身振り手振りを使って、頑張って自分の意見を発信して仕事をしている父をみて、私はとても誇らしく思った。会社での父は輝いていた。そして、父の働く姿は私に大切なことを教えてくれた。
英語をペラペラと話せるか話せないかは、たいして重要ではない。色々なアクセントで英語を話す人がいる、英語での会話では、発音以上にコミュニケーション力や相手と会話をし、それを楽しむ姿勢が大事だ。これからどんどんグローバル化が進み、日本人が海外で活躍することも多くなるだろう。英語に対する苦手意識があったり、発音を不安に感じている日本人に気づいて欲しい。海外の人々と仕事をしたり、友達になったり、会話をしたりすることの楽しさを。間違えたり、失敗したりしても、その経験から学べばいい。コミュニケーションをとりたい、という姿勢さえあれば、相手に伝えたいことはきっと伝わる。父の働く姿は私にこのことを教えてくれた。
いつも私が、
「英語下手だから喋らないで!」
と怒鳴ると、父はいつも
「ごめん」
と小声で謝った。今度は私が謝る番だよ。お父さん、バカにしてごめんね。将来、私はお父さんみたいに世界中の人々と一緒に仕事をしたいな。尊敬しているよ、お父さん。
丸山 かおり(46) 大阪府
最近よく、父を恋しく思う。ちょうど自分が記憶の中の父と同じ年代になってきたからだろう。
私は父が四十歳の時に生まれた子で、だから物心ついた頃の父はすでに老いていて、
「疲れた」
が口癖だった。子供心の無知ゆえに、どうして父はいつも疲れているのだろうと不思議に思っていた。
トラックの運転手だった父は、私を一人残して朝早くから仕事に出かけて、夜遅くに帰ってきた。作業着で帰宅する父は、いつも汗臭かった。
早くに母が他界したため、父は毎日、私の世話や家事に追われていた。だから父はいつも難しい顔をしていて、そんな父のことを、私は好きではなかった。
なぜなら、友達のお父さん達は二十代の人が多く、父と違ってみんな若々しくて格好良かったからだ。どうして私の父はこんなにみっともなくて、年老いているのだろうと思ったものだ。父のことを私の、
「おじいちゃん」
と思う人も多かった。馬鹿にするクラスメイトもいた。からかわれたりすることが嫌で、でも明らかに周りのお父さん達とは違う父のことが恥ずかしくなり、それは私が思春期になるにつれて、嫌悪に変わった。
高校生になると、家には父と二人きりなのに会話は全くなく、父と顔を合わせないよう、時間をずらして過ごしていた。
そんな私のことを、父はどう思っていたのだろうか?
男親が、成長した娘とどう接してよいか分からない、ということもあっただろうし、父は元々ロ下手で、寡黙を美徳とする年代でもあったから、今なお、あの頃の父の気持ちは分からない。
何も言われないのをいいことに、年頃になった私は好き勝手に生きた。就職した大手の会社を簡単に辞めて、二年近く父のすねをかじっていた。その後はずっとフリーターで、給料が少ないことに危機感を抱くこともなく、父との生活を続けていた。十万円程度の給料を良しとし、将来への不安はまるでなかった。
父がいたから。父が、朝から晩まで働いてくれていたから。住む場所や食事、公共料金や雑費に至るまで、何の心配もなかった。父を嫌悪し、感謝の言葉どころか会話の一つもしないくせに、私は大きな顔をして、ふんぞり返って過ごしていた。
本来なら私がしっかり働いて、父に楽をさせてやるべきなのに、黙々と働く父にずっと甘えてしまっていた。六十を過ぎての肉体労働はさぞ辛かっただろうと、今頃になってやっと分かった。
それは自分が年をとってきたからだ。私は今年、四十六歳になる。十年前にその父を亡くし、今は独りで生きている。頼れる人もなく、家族もいない。自分一人の生活を、自分が働いて賄うしかない。それがどれだけ大変なことか、朝出勤するたびに痛感する。もう若くない身体が、心が、辛い辛いと訴える。
そんな時、朝早くから仕事に出かけた父の姿を思い出す。いつの間にか小さく、曲がっていった父の背中。どうして私は、父の辛さを、肉体的な苦痛を、わかってやれなかったのだろうか?なぜ父に、感謝のひと言すら言えなかったのだろうか?父は、どんな気持ちで毎朝仕事に出かけていたのだろうか?
父は七十歳まで働いた。朝食は食べず、昼は運転席で菓子パンを頬張りながら、夜遅くまで荷物を運んだ。耐えられる年ではなかったのにと、懺悔の思いが私を責める。
今なら、今の私なら、父とたくさん話ができるのに。仕事のこと、生活のこと、色んなことが話せて、そして父を支えてゆけるのに。
今頃になって、こんなにも私は父が恋しい。晩ごはんを一緒に食べて、笑い合いたい。私の帰宅が遅くなっても、父はいつも晩ごはんを食べずに待っていた。それは、気持ちを言葉に出せない父の、メッセージだったのかもしれない。
それに応えてやらなかった私なのに、父は最期まで私の心配をしながら逝った。
今ごろになって分かる、父のこと。今さらながらに、父が恋しい。笑い合って、存分に甘えて、父には楽をさせてあげたい。私が娘で良かったと思ってもらいたい。
思いを父に伝える事はもうできないけれど、それでも私は父に言いたい。
「お父さんのこと、大好きだよ。たくさん、たくさん、ありがとう」
根岸 亜矢(32) 埼玉県
「俺だよ。俺、俺。」
こう受話器越しに名乗る男性は、才レオレ詐欺でも、私のパ―トナーでもない。父だ。父が私の携帯電話に掛けてくる時は、いつもこう名乗るのだ。六十をとうに過ぎた父だが、未だに電話では自分のことを『俺』と呼ぶ。
そんな父のことを、私は幼いころ『パパ』と呼んでいた。でもいつからか.『お父さん』と呼ぶようになった。周りの友達が『パパ』と呼ばなくなって、私もなんだか恥ずかしくなり、『お父さん』と呼ぶようにしたのだ。
私には二人の子供がいる。小学三年生と年長の息子だ。長男は、一年生になるころから『ママ』ではなく『お母さん』と呼ぶようになった。次男は、まだ私のことを『ママ』と呼んでいる。でも最近、幼稚園では『お母さん』と呼んでいることを、私は知っている。きっと『ママ』と呼ぶことが恥ずかしく思えてきたのだろう。どうやら私は今『ママ』と『お母さん』の狭間にいるらしい。次男の成長を嬉しく思うが、同時に、もうすぐ私を『ママ』と呼んでくれる人がいなくなるのだろうと思うと、それはそれで淋しいのだ。もしかしたら父もそうだったのだろうか。
父は今、『パパ』でも『お父さん』でもなく『おじいちゃん』だ。長男が喋れるようになって『おじいちゃん』と初めて呼んだ時の嬉しそうな父の顔を、私はハッキリと覚えている。今までで一番嬉しい呼び名なのかもしれないな、と思った。
私も、息子達の前では父のことを『おじいちゃん』と呼ぶ。『お父さん』になってから、もう呼び名が変わることはないだろうと思っていたが、案外ホイホイ変わるものだ。
今度呼び名が変わる時は『ひいおじいちゃん』になる時だろう。どうせならうんと長生きして『ひいひいおじいちゃん』になってもらおうじゃないか。父は『ひいひいおじいちゃん』になっても、受話器越しに
「俺だよ。俺。」
と言うのだろうか。それとも
「わしじゃよ。わし、わし。」
に変わっているのだろうか。その答えを知るには、お互い長生きしなくちゃいけないな。またいつでも電話掛けてきてよね、お父さん。
中島 陽子(45) 大阪府
「今日、何食べたい?」と聞くと、夫は決まって、「陽子が食べたいもんでいいよ」と答える。
私の夫は、食事に対して何も言わない。むしろ作る側の張り合いのためにも、もっと興味を持ってほしいくらいだ。食事のとき、夫の反応を眺めていると、お決まりの平坦なトーンで「おいしい」とは言うのだけれど。とはいえ、食にこだわりのない夫と結婚したのは、父が反面教師になっているのかもしれない。
私の父は「自称グルメコーディネーター」。食べることにしか興味がなく、休日の朝などは、朝食をとっている最中から、「今日の昼はそうめんがええな。錦糸卵とハムと…ネギとミョウガも刻んでや。夜は中華鍋にして。鶏ガラで出汁とってウズラ卵と…」と、母に献立の内容を事細かに指示するのだ。わが家で一番大きな鍋の中に首長竜を小さくしたような鶏ガラが煮込まれていたときの驚きは今でも忘れられない。そんなふうに、日々お店レベルの味を求められたせいか、母の料理はおいしく、私が学生時代のときには弁当を広げると友だちにうらやましがられるほどだった。
「自称グルメューディネーター」は、私が一人、遅いタ食をとっているときにも発動した。食べようとするとどこからともなくやって来て、向かいの席に座り、「それは醤油をつけて。あ、それはちょっと待て、辛子がいる」などと、食べ方に指示を下すのだ。そして「うまいか?うまいやろ?」とうれしそうに私の顔を覗き込んでくる。可愛げのない私はいつも「うーん、まあ」とウザさ満開の返事を返していた。
食べるばかりで運動をしない父は、私が小さい頃からすでに糖尿病を発症していた。でも、「食事制限するくらいなら、好きなもん食って死んだ方がマシ」と断言し、一切、食べたいものをガマンすることがなかった。
そんな父が70歳を過ぎた頃、急に食べられなくなった。食べようとしても喉を通らず、しまいには嘔吐するようになった。医者嫌いの父をなんとか病院に連れて行った。結果は胃がんだった。手術もできないほどに進行していた。母と私はうろたえた。まさか、がんだなんて…。
入院すると、父はたちまち病人の顔になった。あんなに食べることが好きだった父が、食べたい気持ちはあるのに食べられなくなった。そんな父を見て、神様は、最後の最後に、人の一番好きなものを奪ってしまうのかと恨んだ。「せめて、あめ玉をなめたい」と父が言うので看護師さんに確認すると、喉に詰まらせないようにあめ玉をガーゼでくるんで、ガーゼの端を口から出してなめさせるようにと言われた。ベッドに座り、ガーゼにくるまれたあめ玉を力なくしゃぶる父。すぐに「もう、ええ」と言ってあめ玉をコロンと吐き出し、またベッドに横たわった。哀れでならなかった。
ろれつも回らず、会話も困難だったけれど、せめて気がまぎれることをと、父と母と三人でしりとりをはじめた。父は「て…てっかまき」「な…なまぎも」と、この期に及んでも食べることばかり言う。おかしくて母と顔を見合わせて泣き笑った。
そして、胃がん宣告から一年を待たずに父が息を引き取った。棺には父が好きだったチョコレートパンの他、しりとりで出てきた鉄火巻きも入れた。天国でいっぱい食べられますように。そう願って手を合わせた。
元気な頃は、人一倍、食い意地の張った父にうんざりしていたけれど、今となってはそれはそれでよかったなと思う。なぜなら、いろんな食材やメニューを見るたびに父との思い出がよみがえるのだ。夏に冷麺の張り紙を見れば、「あの店の冷麺、パパが好きでよく食べに行ったな…」。冬に鍋を食べれば、「『鍋の火を家族で囲むと幸せや…て思うねん』て、言ってたな…」。お肉売り場に行けば、「パパが好きだったセンマイ、豚足…やっぱり私は苦手やな…」。そんな記憶をよみがえらせてくれるのだ。
パパ。今、天国でおいしいものを食べられていますか。ずっと生意気な私でごめんなさい。おいしくて笑える思い出をありがとう。
2017年入賞作品
「役に立たない技」澤登 勇輝(10)大阪府
「父と青森駅」鎌田 誠(68)北海道
「書道展で語らふ親子」冨樫 正義(31)
「パパありがとう」中山 雄陽(6)高知県
「初めての告白」田中 加奈(34)東京都
「月光仮面のようでした」小山 しず枝(62)山口県
「初めての給料」大西 賢(43)東京都
「父と私の関係性」久保田 莉奈(20)兵庫県
石田 桂子(40) 福岡県
幼い頃の私が、楽しみにしていたこと。
お昼ごろ、家の中でママに遊んでもらっていると、家の外からクラクションが、
「ブブブ。ブブブ。」
と、鳴ることが、しばしばありました。
「わあい。パパだぁ。」
パパが、仕事の途中で、トラックを家に横づけして、
(むかえにきたよ)
と、合図をしているのです。
私のパパは、若い頃、トラックの運転手でした。私はパパのトラックを『お二階バス』と、呼んでいました。ママに抱かれて、助手席に座って観る景色は、パパに肩車してもらうのよりも、もっと見晴らしが、よかったからです。バスの二階にいるように・・・・・・。
「よかったね。パパが一緒に、お仕事に、いこうねって」
ママがにっこり笑います。
トラックの助手席の階段は、子供の私には高すぎるので、ママが私をだっこして、運転席から、手をのばしているパパに渡してくれていました。
「おお。いい子にしてたか?うれしいか?」
「うん。パパ。ありがとう」
助手席から見るパパは、とても格好よく見えました。
「ほら、いくぞ。」パパが、言います。
「はあい。しゅっぱあつ!!」私もいいます。
トラックはゆっくり動き出しました。
「すごぉい。」
「そうか。すごいか」
パパとママが、顔を見合わせて笑います。
「うん。パパが、一番、格好いい。」
「そうか。そうか。」
その後に、トラックを運転するのに集中するために、「キリリ」と、真顔になるパパも大好きでした。
**
パパは、五人兄弟の五男として、誕生しました。
「また、男か。」と祖父は言ったそうです。
だから、私が、ママのお腹の中にいて、男の子か、女の子か、まだ、わからないころから、パパは、「絶対に、女の子がいい。」と言っていたそうです。
「女の子が生まれた。」
電話で伝えられたパパは、なにもかも放り出して、ママと私のもとへ、かけつけ、
「ありがとう、ありがとう・・・・・・。」
と、泣きながら何度も繰り返したそうです。
そして私は、パパとママに尋常でなく、かわいがられて、恵まれた幼少期を、過ごしました。
**
私が、散々、はしゃいで、はしゃぎつかれてうとうとしていると、パパとママのヒソヒソ声がなんとなく、聞こえてきます。
「桂子、ねたか?」
「うん。ねむりかけているみたい。」
ママが答えると、パパはトラックのスピードを、おとします。
私は、いつも、それを確認して、深い眠りに、おちるのでした。
**
それなのに、いつの頃からか、パパの職業について、私は引け目を感じるようになってしまいました。
「桂子ちゃんのお父さんは、何をして働いているの?」
「トラックの運転手!!」
私が、はりきって答えると、訊いてきたおばさんは、
「ああ。トラックの運ちゃんね。」
と、軽蔑のまなざしで、私をみました。
これとは、多少違っても、”トラックの運転手“というと、見下したような言い方をする大人が、少なからずいました。
逆に、“医者”とか、“弁護士”とかの子供であると、親の七光りのようなものがあるということも、成長するとともに、わかってきました。
そんな私に、ママがいました。
「パパは、汗を流して働いてくれているのよ。ママと桂子が生活できるのも、全部、パパのおかげなのよ。」
ママは続けます。
「恥ずかしがることなんて、ないのよ。桂子は、お二階バスに乗ることが恥ずかしいの?」
「ううん。お二階バスも、パパもママも、大好き。」
「じゃあ。いいじゃない。」
「うん」
**
あの頃から、歳月が過ぎ、パパも定年を迎えました。私も、四十歳になり、あの頃のパパの年齢を、追い越しました。
今だから、わかります。
“一家の大黒柱”として働くことが、どんなに大変か。責任感を持たなければ、ならないか。
(パパは、“お二階バス”に私を乗せていくことによって、働いている姿を、見てほしかったんじゃないかなあ。)と、思います。
“職業に貴賤は、ない”と、簡単にまとめることもできます。
ただ、「パパは、本当は、野球選手になりたかった。」ということを、私は、知っています。
家族のため、夢に、おりあいをつけて、生きるために仕事をしていたパパを、今でも、いい父親だと思います。
これからは、余生を楽しんでほしいです。今まで、ありがとう。
これからも、宜しくね。パパ。
豊崎 朋子(49) オーストラリア
朝起きれば、丼ぶりに、ドカンと入った野沢菜の漬物が食卓に上がっている。一服入れる時も、昼の時間も、夕飯の時も、必ず野沢菜の漬物がある。ここは、長野県の旧四賀村(現松本市)、父の生まれ育ったふる里だ。
毎年夏になると、神奈川県に住む私は、家族と一緒にここを訪ねた。
「よぅ、来たね。さぁ、上がりましょ」
花柄の割烹着をかけた伯母さんが、私たちをにこやかに笑顔で迎えてくれた。足の悪い婆ちゃんが、障子をガラッと開けて、居間からぬっと顔をだす。
「とわかったずら(遠かっただろう)。ほれ、茶でも飲んで、漬物食え」
家の中に上がると、今年もやっぱり野沢菜の漬物が、丼ぶりにこんもりと盛られていた。いやぁ疲れた疲れた、と言って父は、ズズズーっと茶をすすった後、つま楊枝二本を使って、3センチほどの長さに切られた漬物を、ザクザクザクっと4、5本串刺しにして、一口でバリボリバリ。私は茎の部分を一本だけ楊枝に刺す。小指をちょっと立てて、前歯でカミカミしていると・・・
「そんな食い方してぇ」
と、婆ちゃんが呆れている。この食べ方はどうも邪道らしい。とにもかくにも、子供だった私には、どうしてこんなに大人たちが、ボリボリボリと口を休めることなく野沢菜を食べるのか、不思議で不思議でたまらなかった。
そんなこんなで、帰りの土産は、やっぱり伯母さん特性の野沢菜の漬物。
「大した土産もなくてねぇ・・・」
と伯母さんが恐縮すると、
「いやぁ、これが一番の土産だよ」
と父は満面の笑顔で受取り、車のトランクに大事そーに詰め込むと、信州の山々を惜しみながら、くねくね曲がった山道を下って行った。
父は警察官だった。何事にもきちっとした性格で、警察が天職のように思えた。
ある日の晩、うぐいす色の包装紙に○○堂と印刷された菓子折りらしきものを持って帰宅した。父の手土産と言えば、大抵飲んだ時に駅前で買った天津甘栗だ。
それにしても珍しい。今日の手土産は、甘栗でもなく、時計の針は六時半。台所では、母は、あらかた晩御飯の支度が終わったとみえ、前掛けで手をふきふき、父の方をチラッと見た。そして、台所のテーブルに置いてある包みに目を向けた。
「あら、それなに?」
「・・・」
「誰からなの?」
「・・・」
父は大抵無言だ。聞いているのか、聞いていないのか・・・わからない。が、ちゃんと聞いている。
「お礼しなくちゃいけないわねぇ」
母が独り言のように言うと、
「礼なんていらないよ」
突然、父は口を開いた。
「そういうわけにはいかないわろねぇ?」
母は、隣にいた私に同意を求めるかのように言った。が、父は、何も答えずに、台所からすぅーっと出て行った。そして普段着に着替えて戻ってくると、テーブルの自分の席に腰を下ろし、その包をじっと見つめて、ぼそぼそっと話を始めたのだ。
うちの留置場に、コソ泥で捕まったのが入ってきてさぁ、そいつと当直の晩に、ちょこっと話したんだよ。そしたら、うちの田舎と同じような話し方するから、長野の生まれかって訊いたら、そうだって言うんだよ。だからさぁ、うちの野沢菜でも食わせてやろうかなぁと思って、弁当箱、ほら、あのカニの形をした弁当箱だよ、あれにちょこっと入れて持ってってやったんだよ。これでも食って、田舎のことを思い出せって言ったらさぁ、オイオイオイオイ泣きだすんだよ。声を上げてさぁ。お袋さんも泣いてるぞって驚かしたら、とにかくないてよぉ。俺もそれから気になって、もう一度野沢菜もって顔出して、お袋さんを泣かせるようなことだけはするなよって言ってやったよ。まぁ、それから俺もそっちに行かなくなって、気にはしてなんだけどな・・・。そしたら、今日、受付から電話があって、人が来てるっていうから、誰かと思って下に降りて行ったら、そいつがいてさぁ、おかげさんで目が覚めましたって、そう言うんだよ。仕事見つけて、初めて給料もらって、その金でこれ買って・・・。
父は、どこか遠い目をしていた。
「わぁ、わざわざあいさつに来てくれたんだね。なんか言ってあげたの?」
母は、ふいに父に尋ねた。
「いやぁ、言わないよ。そうかそうかって話聞いて、よかったよかったって、肩叩いてやっただけだよ。そしたら、世話になりましたって言ってさぁ、頭深く下げて、かえったよ」
お父さんって、こんなところがあるんだ。私はしばらく動けなかった。
ふと、外を見ると、車がいつもよりゆっくり通り過ぎていくような気がした。
「ふぅん。じゃぁ、これからは、まじめに働くんだろうねぇ・・・」
母は、つぶやくように言った。
「あぁ、そうだろうよ。未だに、あの時の漬物の味が忘れられないだとよ」
父は、来年九十歳になる。長年の習慣のせいだろうか。家の中でじっとしているのは、どうしても苦手らしい。今は、農家の畑を借りて、寒かろうが暑かろうが、毎日、ひとりもくもくと、野菜作りに精を出している。警察のカチッとした制服より、プ~ンと土のにおいのする作業服が良く似合う。
父は、シャキッと背筋が伸びたキューリを見ながら独り言のように言った。
生き物相手の趣味はいいぞ。生き物ってのは可愛がれば、まっすぐ育つもんだからなぁ・・・。」
父の何気ないその言葉から、ふとあの野沢菜の話を思い出した。父の見返りを期待しない無償の愛は、人に安心感と幸福感を与えている。遠く離れて暮らす父の顔を思い浮かべながら、私も父のような人になりたいなぁと、この年になってつくづく思う。
小松崎 潤(36) 東京都
教育係の父は何かにつけて「競争」という言葉を使った。
あれは中学三年の夏だった。僕は勉強が大嫌いで、通信簿は見事に「2」が揃っていた。3段階ならまだしも、当時は十段階である。さすがに両親は開いた口がふさがらず、父はすぐさま僕を集団塾にいれた。僕は全く乗り気ではなかった。勉強ができない僕はダメなやつって言われているみたいだから。
だけど父は言った。
「まあ、行ってみろ」
こうして始まった塾通い。そもそも僕は、ちゃんと勉強したことがないから持ちものすらわからない。だから恥ずかしいことに手ぶらで行ってしまった。
こうして初めて入った、つくし塾。そこは茶の間で勉強しているようなアットホームさだった。
僕は正直に話した。勉強が嫌いなこと。勉強の仕方がわからないこと。
すると米山先生が笑いながら言った。
「大丈夫よ」
だけど僕はかけ算さえ怪しかった。分数だってすっかり忘れていた。それでも先生は決して僕を馬鹿にせずに一から教えてくれた。
幸い、この塾はテストさえなければ誰かと争うこともなかった。競争、競争という割には父の選んだ塾は以外にも気楽な場所だった。
それから月日が流れ、友達が大学受験をする中で僕は専門学校へ行くことにした。なぜかって。それは勉強が嫌いだからだ。もう英語も数学もやりたくない。そんな安易な考えからだった。僕は勉強が嫌いだけど、お年寄りと子どもは好きだった。介護士か、保育士か。悩んだ末に介護の道を選んだ。まわりの友達からは「3Kだろ」と揶揄された。
「くさい、きつい、あとなんだっけ」
「きたない、だよ」
そんな会話は日常茶飯事だった。だけど全然気にならなかった。机で勉強するくらいならお年寄りの相手をしている方が幸せだから。
だけど就職してから3年目のこと。初めて移動の洗礼を受けた。新天地では当然右も左もわからず戸惑った。それに加え、もともと要領の悪い僕は周りの足を引っ張らないか気が気じゃなかった。気づけばいつだって時間と競争していた。
「あと三十分で食事介助をおわらせて」
「二時までにおむつ交換を済ませて」
頭の中は常にタイムスケジュールでいっぱいだった。そんな時、ナースコールで爪を切ってほしいとか散歩に行きたいとか言われると、ものすごく困った。
「ちょっと時間がないんで」
そう言って僕は断ってしまって。だけど本当はずっと後ろめたかった。だって僕らはやろうと思えば自分のことは何でもできるから。長くなった爪を切ることも、天気のいい公園を歩くことも。だけど老人ホームにいるお年寄りにはそんな自由がない。ああ、ぼくは何をしているんだ。
こうしてやってあげたいことと、やらなきゃならないことの狭間で僕はもがいていた。
すると異動してから二週間後、僕はついに四十度の熱をだした。突然のことだった。この日、僕ははじめて欠勤をし、その足で実家へ戻った。三年ぶりだった。居間に入るなり懐かしい畳の香りがした。しかし、すぐさま僕はどうしようもない気持ちに襲われた。もう行きたくない。もう死にたい。もう、もう。いっそ熱が下がらなければいいとさえ思った。しかし、神様は無惨にもたった一日で熱を下げてしまった。
翌朝僕は廊下をうろうろしていた。行こうか、休もうか。すすむ、とまる、もどる。気持ちも体もそんな感じだった。すると父がひょっこり顔を出して僕を呼んだ。
「おい、潤。なんかあったか」
僕は話した。父はそれを、うんうんと聞いていた。だけど最後に言ったんだ。
「まあ行ってみろ。介護ってさ、時間でやるもんじゃなくて、時間をかけてやるもんだろ」
ああ、そうか。僕は妙に納得して家をでた。
二日ぶりの職場は新鮮だった。だけど相変わらず僕は容量が悪かった。
おむつ交換ひとつとっても他の人より倍かかる。爪を切ろうとすれば他の方から呼び止められてしまい、なかなか仕上げることができない。だけど精一杯やってみた。そしたら気がついた。時間をかけてやるからこそ見えるものがあるんだって。お年寄りの嬉しそうな表情。さみしい、かなしい、傍にいてほしいという心の声。時間をかけるとそんな小さな表情まで見えてくる。確かに、たったひとりの力で、大きなことはできない。だけど、おおらかな気持ちで接すると「楽しい」とか「嬉しい」という気持ちが生まれて、自然と笑顔が増える。それは相手も同じだった。手をぎゅっと握れば喜んで、背中をさすれば「ありがとう」と笑った。そうか。僕にできることは、人の気持ちに寄り添うことなんだ。
そこで気づいた。父の考える「キョウイク」と「キョウソウ」の本当の意味。それは「今日、行く」と「今日、添う」ではなかろうか。
「とりあえず行ってみろ」
「時間をかけてやってみろ」
その言葉は僕に、一歩踏み出すことの大切さと、誰かに寄り添う事の意味を教えてくれた。
ああ、そうか。あの塾を選んだ父はその時既にそのことを教えてくれていたんだ。そんな気がしてならない。なんだか気づかなかった愛情が身に沁みて急に父に会いたくなった。
今年の夏は父のところにその答え合わせをしに行こうと思う。今さらちょっと、はずかしいけどな。
大西 賢(47) 東京都
高校一年生の一学期が終わって、通知表をもらった。しまった、と思った。通知表には5段階評価で「1」と「2」しか並んでおらず、「普通」を示す「3」は一つもなかった。
(こんな通知表を見たら、 父さん、悲しむだろうな)
そう思った。 我が家は兄も妹も優秀で、「4」や「5」ばかりが並んでいる通知表をもらっている。 そんななか、私だけ「1」と「2」のオンパレードなのだ。一体、どんな顔をしてこの通知表を見せればいいのだろう。
夕食の時間になり、 兄も妹も通知表を父に見せた。父は満足そうに笑った。
「さて、じゃあお前の通知表も見せてもらおうか」
そう言われて、仕方なく、私は通知表を見せた。
父は黙って通知表を見ていたが、ふいに、こんなことを言った。
「お前、将来に夢はあるか?」
「世界中を旅行したい」
正直にそう告げると、
「よし!それで充分だ!」
と父は言い、通知表を閉じた。
「どんなに成績が悪くても、お前が青年らしい夢を持っているのなら、それで父さんは満足だ。それ以上、何も望むものはない」
父は笑って言った。
父さんは子供に「優秀な学力」なんて求めていなかったんだね。青年らしい大志を抱いていること、そして我が子がそれを成し遂げるだけの健康な身体を持っていること、それだけで本当に充分だったんだね。
父さん、あの時は本当にありがとう。「1と「2」しかない通知表を見てもまったく動じず、ありのままの息子を認めてくれたその姿勢に、 本当に救われたよ。
松井 裕子(47) 茨城県
子どもの頃、父のタバコを買いに行くことが、ちょっとした小遣い稼ぎだった。目当ての銘柄はハイライト、当時百五十円。私に二百円を渡した父は、釣銭はとっておけ、と言った。しばらくしてから、父は銘柄をマイルドセブンに変えた。ハイライトの時は、ミスすることなく自動販売機のボタンを押すことができた私は、名前の似ていたセブンスター を二回ぐらい買って帰ったことがあった。父は、こっちじゃないんだけどなあ、と口をへの字にして受けとったが、そんな時は子ども心に私はいつもの小遣いを遠慮したものだった。
父はとにかくヘビースモーカーだった。私の弟曰く、一本火を点けたかと思うと、あっという間に灰皿に押し付けてしまう贅沢な吸い方で、もったいないのだそうだ。そんな弟は自分の娘が生まれたら、ピタッと禁煙したが。私達兄弟三人が独立し一緒に暮らすことがなくなった後も、父は変わらずタバコをくわえ続けていた。
ある日父を訪ねた時、よく行くいつものタバコの自動販売機の前での出来事について父から聞いた。
高齢の女性が財布から小銭を探しているようだった。しばらく待っていたが、なかなか 小銭が揃わないらしい。父は後から声をかけた。
「タバコを吸われるんですね」
すると女性は、
「すみませんね、遅くてね」
と言いながら、やっと彼女は目当てのタバコを購入することができた。近くのベンチで二人並んで座って一服。聞けば、女性は五年ほど前から愛煙家になったとのこと。病床の旦那さんから、
「お前、俺が死んだら気晴らしにタバコ覚えてみたらどうだ」
の言葉がきっかけだということ。思えばあれは、遺言かしらと思い出し笑いをし、寂しさを伴いながらもそれ以来、たまにタバコを買いに来るということ。普段無口な父が、そんな風に人とコミュニケーョンをとるなんて意外に感じた。
健康増進法の成立、受動喫煙対策が二〇二〇年より全面施行、相次ぐタバコ価格の値上 げ、愛煙家の人々は、ますます肩身がせまくなってしまいそうだ。生命として限界を迎えているという父の主治医の言葉を聞き、もうタバコをくわえることがなくなった父の寝顔を見ながら、私はタバコが取り持った幼い頃の思い出や、父がタバコを介した人との関わりの一端について、ぼんやりと考えていた。
星野 ゆかり(32) 静岡県
「写真撮ってよ、パパ!」
満開の桜トンネル。紺碧の海。赤く燃える紅葉。白銀の雪景色。どんなに美しい風景を背にして私がねだっても、一眼レフをぶら下さげた父はいつも首を横に振ってばかり。
「俺は風景カメラマンだ。人物は撮らないよ」
それが決まり文句。
「一人娘よりも景色の方が大事なの?」
幼い頃から私は不満だった。だから家族旅行に行っても、思春期を迎える頃には父に「写真を撮って」と頼まなくなっていた。
そして、 大人になった私は次第に家族と出掛ける事もなくなっていった。
一年前。三十年間暮らした故郷を遠く離れた地へ私は嫁いだ。
嫁入り前夜、居間で母としんみり語っていると、父が沢山の冊子を抱えて現れた。
「嫁入り道具だ。持っていけ」
照れ隠しなのか、無愛想に手渡す父。
一目で手作りと分かる製本。丁寧に綴られた装丁には、全て同じ文字が印字されていた。
『ゆかりの十二ヶ月』
唯一違うのは元号だけ。平成元年から始まり、平成三十年まで一年も欠かさず揃っていた。驚きながら中を開くと…
それは、父手製のオリジナルカレンダーだった。春夏秋冬、三十年分の十二ヶ月の『私』がいた。母と手を繋いで桜並木を歩く入園式の私。祖父と海で西瓜割りをしている小学生の私、中学の体育祭でリレーのアンカーを走る私。旧友とはしゃぐ成人式の振袖姿の私。
そこには、カメラ目線の私は一人もいない。全て父の隠し撮り写真。だからこそ、自然な笑顔。父だから娘の一番『いい顔』を知っていたのだ。
大きくプリントされた私の写真の下の、カレンダーの日付欄に印字された文字は…
「入学式」「運動会」「テニスの試合」「卒業式」「結納」…
全て私に纏わる行事で埋め尽くされていた。
父の愛情に彩られた十二ヶ月×三十年。
「なーんだ、風景よりも私の方が大事だったんじゃん」
世界でただ一つだけの手作りカレンダーを抱き締めながら、三十年越しに父の愛情を泣き笑いで痛感した。
「ありがとう、パパ」
2016年入賞作品
「私たちの重たい荷物」市村 朋子(23)奈良県
「父の入学プレゼント」服部 勝美(48)愛知県
「父が助けてくれた」入倉 文子(62)山梨県
「初心封筒」家入 李佐(31)鹿児島県
「父の形見三品(お父さんへの手紙)」古川 峰生(76)神奈川県
「覚悟」竹内 祐二(52)愛知県
市村 朋子(23) 奈良県
父と二人でお酒を飲んだ。
大学院に進学することが決まった私のために、父が引っ越しの手伝いをしに来てくれた日のことです。
私はこれまで、両親から「こうしなさい」と言われた覚えがありません。「どうしたらいいと思う?」と相談しても「朋子さんの好きなようにしたらええ」とそっけなく言われていました。愛情は感じます。大切な家族として思ってくれていることも知っています。けれど、『私ら親も一人の人間・あんたも一人の人間』という考えのもと、私のことに深入りしてこない両親でした。なので、「早く帰ってきなさい」「勉強しなさい」と親がうるさいと嘆く友人たちに「心配してくれてるんだよ」と笑顔で言葉をかけながら、「じゃあ何も言ってこない私の両親は?」。自分の言葉が自分自身に跳ね返ってきました。
幼い頃からこのように育てられたので、私は自分でしたいことを決め一人で行動する人間になりました。高校受験では高校選びから一人で行い、受験しました。やっとその高校から合格通知が来るかもという頃になって、母から「そういえばあんた、高校どこを受けるつもりなん?」と聞かれたほどです。父は何も言ってきてくれさえしませんでした。
そしてそのまま育った私は、大学で行っていた研究が非常に楽しく、より先端科学を勉強したいと思ったので大学院へ進学することも一人で決めました。そしてこの春から進学することになりました。
これまですべて自分で決めてきた進学ですが、大学院まで学校に通わせてもらって申し訳ないという気持ちは常に付き纏まとっていました。自分で決めた学校だからといって、自分でそれにかかる費用を出せるわけではありません。学費はもちろんのこと一人暮らしにかかる家賃や生活費も、すべて両親から出してもらっています。アルバイトをしてはいるものの、学業の片手間では気持ち足しになる程度の収入しかありません。それにも関わらず、両親に「ここの大学院受かったから。入学金・学費がこれだけ要る」と伝えると、「へえ、そうなのおめでとう。どこの口座に入れればいいの?」と嫌な顔ひとつせずにお金を出してくれるのです。本当は大学院に行ってほしくはないんじゃないか、子供の決めたことだから仕方なくお金を出してくれているんじゃないか、進学なんてせずに就職してこれまでの学費を早く返せと思ってるんじゃないか?。これらの不安がぎゅうぎゅうに詰まった重たい荷物を、私はずっと抱えていたのです。どこにも置き場所がなく、誰に見られるわけにもいかず、しっかりと蓋ふたをして。なので、引っ越しが終わった夜に父から「どこか飲みに行くか」と言われた時には正直行きたくないな、と思いました。私が必死に閉じている蓋をこじ開け、責められるのではないかと怖かったのです。
お店の料理は非常に美おい味しく、話に花が咲きました。お酒も進み、父はいい気分のようでした。しかし私はあの話題にいつ触れられるのかと、お酒に酔うことも料理を味わうことも出来ませんでした。
話題もひと段落し、ふと私たちの間に静かな時間が流れました。私が何か話題を探していると、父が突然「ありがとう」と呟つぶやきました。料理を取り分けてあげたわけでも、飲み物を渡したわけでもありません。何のことだろうと首を傾かしげると、父は手のひらで自分の顔を押さえて続けました。
「母ちゃんも僕もな、朋子さんに勉強しろとかこうせえとかああせえって言って育ててこんかったやろ。やから嬉うれしいんや、大学院に行ってくれて。もっと勉強したいから院に行きたいと思ってくれて。朋子さんがしたいと思ったことを自分で決められるように育ってくれて」
ありがとう、と最後に付け加えた父の声は震えていました。 目の奥から涙が迫ってくる感覚に息を止めました。別に泣くなと言われたわけではありません。しかし泣くよりも今目の前で涙を堪こらえきれていない、初めて知る父の姿をもっと見ているべきだと思ったのです。そして私だけじゃなかったんだと力が抜けました。蓋をした重たい荷物を抱えていたのは私だけではなかったのだと。 両親の抱えていた荷物をこの時初めて知りました。初めての子育てで、自分の子供であろうともどこまで他人の人生に干渉していいものか。どうしたらしっかりとした人に育ってくれるのか、いろいろと迷い、二人で話し合って。その結果、私にすべての選択を任せるというそっけなくも感じる態度を取っていたのだと。その裏では、親としてもっと口を出した方がいいのではないか、本当にこれが良い選択なのかどうかと不安になりながら。
私は込み上げてきたものをなんとか抑え込んで、私の荷物の蓋も開きました。 それからの父はいつも以上に饒じょうぜつ舌で、「飲んで忘れてくれや」と恥ずかしそうにしていました。しかし、お酒のせいにするにはお互い酒に強過ぎて。
「あなたの娘やねんから、無理やろ」「それもそうやな」と笑い合って、そのまま父は新幹線に乗り込みました。「じゃあな」と、また明日も顔を合わせるような軽い挨拶を残して。
遠ざかっていく父の姿を見送りながら、私は身体の軽さを感じていました。もう私に抱えなければならないものはありません。
引っ越しの終わった部屋に帰り着いた時、私の本当の引っ越しが終わったような気持ちになりました。
次はいつ父と二人で飲めるのか分かりません。帰り際に「次の引っ越しも手伝ってね」とお願いしてみたら断られてしまったので。
ですが、それが父なりの照れ隠しなのだと、もう私は知っています。子供思いのとても優しいお父さん。また一緒に飲もうね。その時までに、たくさんたくさん面白い話を用意しておくから。詰め込み過ぎて重たい荷物になってしまうかもしれないね。
服部 勝美(48) 愛知県
長女が中学を卒業して四月から高校生になる。母として思い出に残る入学プレゼントをしたいと思い悩んでいる所だ。親になってからは、プレゼント一つでも真剣に考えるようになった。本当に子どもに必要か?そうでは無い物か?の判断に迷うこともしばしばある。子どもにとってプレゼントは最高のご褒美だからそのタイミングが大事だと思っている。適切な時と適切な品物のタイミング!それが難しい。
私は、子供の時に親からプレゼントという物をもらった記憶がほとんどない。もし、貰ったとしても記憶にないからたいしたものでは無かっただろう。しかし、今でも覚えているプレゼントが一つある。それは父親からもらった大学の入学プレゼントであった。
二十三歳の時、一年だけ英語を勉強して戻る約束で留学をしたが、約束を破って大学の受験までしてしまった。運よく合格はしたが親には約束を守れないと告白をしなければいけなかった。更に足りない入学金も用意しなければいけなかった。入学前に叔母さんに預けたお金が少しあったのでそれを返してもらうつもりだった。不足分は、借りる覚悟をしていた。ようやく一年ぶりに戻ったけれど約束を守れない娘の事で怒ったのか、父はずっと暗くて悲しい顔をしていた。母は、やせすぎた私を見て涙を流しながら四年間の学費の心配をした。父は、私が故郷にいる間ずっと暗い顔だったが約束を守れなかった私の立場からは、寂しいというそぶりは見せなかった。
父は三十年間金属製工の職人だった。年を取り、目が見えなくなり、細かい作業が出来なくなった上にお酒の飲み過ぎで手も振るえるようになった。つまり、クビになったわけだ。その後は母の洋服店の隅っこで小さいコーナーを作り、金属アクセサリーを作って生活をしていたがその稼ぎは父の飲み代位だったらしい。なので、父親として娘に学費を出す余裕は全く無かっただろう。だから私も一切父に学費のことは言えなかった。そういう立場の父だからこそ娘に厳しく言えなかったのだろう。
複雑な心境を神様がわかってくれたのか、叔母さんが預けたお金を一年間増やしてくれた。そのおかげでとりあえず入学金は解決出来た。一安心した私は、すぐにでも学校に戻りたくて急いで荷造りをしていた時だった。父が急に一緒に行きたい所があると言って出掛ける準備をし始めた。理由を聞いても答えないで先に出て行った。二人は地下鉄に乗り、一番にぎやかな繁華街で降り、高いビルが並んでいる中を数えきれないくらいの人混みにまみれて歩いた。父の後ろ姿はあんなにも派手な街には似合わなく、時代遅れの人に見えた。まるで色よりどりのドーナツ箱の中のおにぎりのようだった。
父が向かった所は、派手なブランド品の店が並んでいる商店街で庶民が簡単に見物をする所ではなかった。その中の1件の靴屋を父は戸惑いもなく入って行った。訳が分からず私は外で待っていたら、父が硝子越しに入って、入って、と招き猫のように手招きをしていた。恐る恐る私も店に入ると、父はレディースコーナーに私を連れて行った。突然のことに固まっている私に「入学式で履くような靴を選んでね。それから普段も履けるように楽な感じがいい!」と言った。この状況がすぐに飲み込めなかった私は、小さい声で「こんなに高級な店じゃなくてもいい。」と返事をした。父は「年末に勤めていた会社からこの店の商品券が届いたから安心して選んでね。」と、ささやいた。その話を聞きながら、父の靴に視線が行った。私が中学生だった時から履いていた馴染みのある茶色の靴で、色は剥げていてほとんど茶色ではない靴になっていた。「お父さんの靴を先に買って。私は市場で買うから。」と言ったら、もう一つ靴の商品券があるとバレバレのウソを言い始めた。ウソをいうと父は顔が赤くなるので私と目を合わせない為に商品を選んでいるふりをしていた。そういう父のふりが切なく見えてきて、目に熱いものが集まってきた。瞬きをすると、こぼれ落ちそうだったから二階を見るふりをした。
娘に学費も何も出せない親が、あげれるものがあるならすべてあげたいという心境だろうと、父の言う通りにしようと決めた。もしそれを断ると、父はずっと苦しむだろうと分かっていたから、嬉しい顔を演じた。その代り父に選んでくれと頼んだ。父は、地味で楽でおとなしい感じの黒い靴を選んでくれた。帰りの父は、重くもないのに靴の紙袋を家までずっと持ち続けた。故郷に戻って初めて父の笑顔を見た。その笑顔を見て私は安心して学校に戻れた。それから無事に入学手続きを終え、ピカピカの大学生になった。
父は、自分は何年も古い靴を履きながら、四年間の勉強のために旅立つ娘に新しい靴を履かせてあげたかったのだろうと勝手に思った。それが親の心なのだと、しみじみ感じたプレゼントであった。
「頑張ってね!」「無理しないでね!」「最善を尽くしてね!」などの言葉より何十倍も何百倍も力をくれた一足の靴だった。
しかし、そういうプレゼントを娘にしてあげたいと思うと、複雑になりすぎて迷ってしまうのだ。何かの意味を付けようとするのが演技っぽくてわざとらしい。心から自然に出てくるようなプレゼントをあげたい。それが本当に難しいけれど、こんな悩み事も幸せの一つであることに違いない。つまり、プレゼントは幸せの一つであることは確実に知っている。
入倉 文子(62) 山梨県
「ああ、もう生きていたくない」
目が覚めるといつもそう思った。秋から突然始まった鎮痛剤の効かない体の痛みは年明けから全身に広がり、生きるのが嫌になってしまったのだ。
その日も目が覚めるとすぐに痛みが襲ってきた。室内でも息が白く見える寒い朝だった。(また苦痛に満ちた一日が始まるのか。この病気のせいで長く仕事も休み、いろんな人達に迷惑をかけてしまった。もうこの世から消えてしまいたい。早く楽になりたい)
重苦しい黒い塊が胸にのしかかったような感じで、起き上がる気力もなく、とりとめのない思いを巡らせていた。その時、ふと亡き父の顔が浮かんできた。
父が戦後に裸一貫から始めたメリヤス工場は、時代の波に乗って成長し、昭和四十年代の初めには百人以上の従業員を抱えるまでになった。ところが、昭和四十六年のドルショックで、取引先が倒産。その影響で父の会社も不渡りを出し、連鎖倒産に追い込まれた。親戚の援助のお陰で家だけは取られずにすんだが、五十代半ばで、父はそれまでに築きあげたものの大半を無くしてしまった。高校生の私は、倒産騒ぎの数か月間は祖母の家から学校に通い、実際の修羅場を見たわけではない。でも、久しぶりに母に会ったとき、驚きで声が出なかった。まだ四十代の母は、髪がほとんど白くなってしまっていたのだ。私は、マリー・アントワネットが一夜にして白髪になったという話しはきっと本当なのだろうと思った。
会社を閉めた父は縁側で背中を丸め、一日中たばこを吸っていた。こんな状態がどれくらい続いただろうか、ある日を境に猛然と働き出した。知人が経営する会社で働くように勧めてくれるのを断り、一人で問屋街を回ってブラウスやセーターなどを仕入れ、露店で売り始めた。
ある日、私は学校の帰りに、バスの中から役所の前で店開きをしている父を見た。折り畳みの長机の上に色とりどりの衣類を並べ、役所から出てくる人たちに声をかけていた。色白の父が真っ黒に日焼けし、笑顔で頭を何度も下げている。バスは一瞬にして通り過ぎたが、ぺこぺこ頭を下げる父の姿に激しく胸が締め付けられた。それと同時に、お勤めの話を断って露店を始めた父を恨めしくも思われた。
仕事のかたわら、父は自動車教習所に通い、人の倍以上の時間をかけてどうにか免許証を手にした。そして、知人に譲ってもらった古ぼけた車にワンピースやスーツを積み込み、露天商時代に顔見知りになった客の家を訪問する仕事を始めた。父は客の好みをとらえるのが上手く、その人に似合う品物を持っていくのでよく売れた。洋裁の心得のある母はサイズ直しを手伝うようになったが、客の希望通りぴったりに直すので、評判がよく、次第に売り上げを伸ばしていった。
そんなある日の夜、役所勤めの母の弟が訪ねてきた。丹念に帳簿をつけている父をしばらく見ていた叔父は、感心したように言った。
「にいさんは偉いよな。人に頭を下げてものを売り歩くなんてこと、俺にはとてもできん」
私は胸がどきんとした。以前にバスの窓から見た光景がはっきりと目に浮かび、父はどう答えるのか、じっとその横顔を見守った。
父は、帳簿から目を離し、ゆっくりと顔をあげて真っ直ぐに叔父を見た。そして静かな声で言った。
「この仕事を辛いと思ったことは一遍もない。俺はいつも商売の神様に頭を下げているんだから」
負け惜しみではなく、父が本心から言っているのが私にはわかった。「商売の神様」に深々と頭を下げる仕草をし、にっこりと笑った。心から楽しそうな笑顔だった。小柄な父が大きく輝いて見えた。
布団に横たわっていると、古い記憶が光のようにあふれ、ぼろぼろ涙がこぼれた。
父の人生は苦労の連続だった。幼くして母親と生き別れ、戦争で足に大けがを負い、六十代で妻に先立たれた。でも、子供の頃に奉公に出され、商売のいろはをたたきこまれた父の中には不屈の商人魂が宿っていたのだろう。人の下で働くのを潔しとせず、自分の才覚で生き抜くことに誇りを持っていた。私にも、雑草みたいにたくましい父の血が流れている。そう思うと、どこからか力がわいてくるのを感じた。
それからひと月ほどして、私は名医に出会い、おかげで一年以上たった現在は普通の生活ができるようになった。
今も、あの朝の出来事を思い出すと、とても不思議な気持ちになる。滅多に夢にも出てこない父なのに、不意に記憶がくっきりと蘇り、弱っている私に力を与えてくれた。あの時以来、私は少し変わったような気がする。ちょっと図太く、楽観的になったのだ。これからも予想がつかないような試練が待ち受けているかも知れない。でも、それも生きていればこそ。本当につらいときには、きっとまた父が現れて助けてくれる。だからくよくよしないで、与えられた日々を朗らかに生きたいと思う。
家入 李佐(31) 鹿児島県
家族参観日。大勢のお父さん達がざわざわと並んだ。
「一番怖そうなのがうちのお父さんだよ。さあどれでしょう。」
私はケラケラ冗談混じりで友人に問いかけた。
「もしかして・・・あのピンクのシャツ?」
当たるはずがないと思っていた質問は一発で正解の回答が返ってきた。答えた友人も質問者である私もまさかの正解に驚いて、思わずおかしくなって笑った。いや、ただおかしかったのではない。私の笑いは父が参観日に姿を現した嬉しさが混じっていたのかもしれない。
現役時代、父はまさに仕事人間だった。仕事の舞台は魚市場。生活は昼夜逆転、体力勝負の現場だった。仕事から帰ると夕方5時にはまだ何にも並んでいないテーブルに座り、空の皿と箸を握って台所に立つ母に無言のプレッシャーをかけていた。小学生の私が夜の子供向けの番組にワクワクし始める頃、父は寝室のある二階へと上がる。そして、深夜2時には重い体をぐぐっと起こし足音も立てず黙って一階へ降り、寝起きで食欲のない胃袋に母の握ったおにぎりを押し込む。月明かりの中、父のエンジン音はスーッと消えていくのだった。
私は3人兄弟の真ん中だった。幼くともなんでも下の二人に譲る聞き分けのいい姉と三つ下の泣き虫な弟の間で私は一際わがままで我の強い女の子だった。その名残りは年を重ねても染みついていた。何かを行動に起こす時、親への相談はほとんど無かった。何でも自分の好きなように、例え相談したとしても親の薦めより自分の希望が最優先。それは相談ではなく専ら報告というべきものだった。
短大は栄養学を学ぶ学校へ通い、そこで私は栄養士の資格を取得。卒業後は当然栄養士としての道を進むであろうという両親の予想をさらりと裏切り、またもや相談もなく飲食店の接客業に就いた。朝から晩までハードな労働時間を力いっぱいこなす毎日。一年後には店の責任者になっていた。昼食時間は十五分。一日を目まぐるしく過ごし、帰宅時間は日を跨いでいて帰りはある口からも残されていないほどだった。それでも仕事が楽しかった。職場のみんなが頼ってくれる嬉しさと忙しさの中の充実感で満たされていた。
だが三年目、よく分からなくなった。周囲の人間から働き過ぎだよ、他の会社はそんな扱いしないよ、と言われるうちに、そうか自分は働き過ぎなんだ、会社にうまく使われているんだと思うようになり、いつしか会社が嫌いになっていた。
私はついに辞めてしまった。いつも通りの独断だった。
時が経ったの後に、この時の心境を親と話したことが一度だけあるが、母は我が子が身を削り働く様をこぶしを握る想いで見ていたと述べた横で父は何も言わなかった。結局のところ飲食店とはそういうハードな労働スタンスの職業であり、それを選んだのは私自身、自分の選んだ仕事に対して甘かった私の考えを父は見抜いていたのかもしれない。
社会人生活を好きなように過ごして、二十五歳で私は結婚することとなった。
思いの募る結婚式前夜、父は私に一枚の茶封筒を差し出した。決して綺麗とは言えない字で「父へ」と書かれた古い封筒。それは私が社会人になって初めてもらったお給料の中から一万円、父に渡した時の封筒だった。その字は社会にもまれる前の初々しさとやる気に満ちた渾身の二文字だった。
父は言った。
「これはお前に返すよ。社会人一年目のあの頃の気持ちを忘れるな。初心を忘れるな。」
中身の一万円は入ったままだった。父のあの当時とても嬉しかった事と、気持ちは充分に受け取ったからこれはお前が持っておけという想いを語ってくれた。
何十年と一つの職業をやり通した父。三年そこらで職を辞めてしまった私にとってそれはとても偉大なことであった。父がどうしてそれほどまでにまっすぐ仕事をしてこれたのか、茶封筒を返された夜初めて理解した気がした。
結婚はそう簡単には辞められない人生の大きなスタート。そこに常に初心を持つことの大切さを父は私の心にしっかりと刻んだのだった。
父は三年前に定年を迎え、今では時間に縛られることなく田畑で一日の大半を過ごしている。緑一色の田んぼに立つ、少し小さくなった父の背中を眺めながら私は平凡で幸せな子の結婚生活に今日も感謝を忘れない。
古川 峰生(76) 神奈川県
「あのね、ジャングルでね・・・」この言葉は私が父の蒲団に潜り込み、懐に抱かれながら聞いた寝物語の出だしで、父との唯一のものである。
父は海軍々人で私が五歳の冬に戦死した。その数年前から海洋勤務のが多く家にいることは殆んどなかったという。だから私は父を知らない。母の話によると、父は大変なお洒落で身嗜みに気を遣う、几帳面な勤勉家であったこと。そして、私が父の生き様を身近に育ったかのように、特性及び所作が酷似しているとの事である。私はそれが大層嬉しく、父からの伝承資格を誇りに思っている。
その父が誂えた二重廻し、合コート、三ツ揃いの衣服は、戦死訃報の数日後に届けられた。戦後母は女手一つで家族を養うため、懸命に働く傍ら、大方の衣料類を食べ物に換えた。父の遺したこだわりの衣服類は特に有効な品として、私たち家族の飢えを大いに充たしてくれた。然し、死後納品されたこれらの三品については手元に残した。毎年お盆が来ると軒下に吊るしては風を通し、念入りに手入れをして大切に保存して来た。
その母が死没後は、長男の私が父の貴重な形見として譲り受けた。お盆の虫干し等諸事母が実行したと同様、丁寧に取扱い保管し、今日に至る。これらの衣服は無事帰還し、袖を通すという強い意志が込められたもので、その父の気持ちに寄り添うと思うからである。
本年十月喜寿を迎える私は、病身で何をするにも大義億劫になりつつある。そのような中、未だ身体が動く内にとこの春定年退職後初めて、現役時に身に着け携帯した軍服、衣料カバン等多くの品々を、思い切って処分(発展途上国への支援品として提供)した。
手入れが行き届いていた品物はいずれも新品同様であったが、今後着用見込みがない物であり、家族の為にも手仕舞い、整理すべきと思ったからである。その作業をしながら重要なことに気付かされた。それは各々の品には手に入れた折々の思い出があり、その品を手放すことは、そうした思い出を断ち切ることなのだと。それ故私は自分の衣服は処分出来たが、父の形見の三品は躊躇することなく残した。父への貴重な思いでの<縁(よすが)>をなくしたくなかったからである。
私もやがて父の処へ往く。そのときは幼くしての離別故、再会ではなく初めての出会いに等しいものとなろう。その際誂えの三品を持参していれば、我が息子とためらわず認知してくれるであろう。
私は是非、父に為してもらいたいことが二つある。一つは、格別の思いを込めて注文、仮縫いをなどしたであろう三品の衣服に誂えに主として、七十年以上経過したが存分に心行く迄袖を通してもらうこと。二つは、海軍の父が何故ジャングルなのか、そしてその話の続き、結末をしっかり聞きたい。そうすることにより、私は父の懐で聴き耳をそば立てたあの頃の幼児に戻り、親子の温もり、絆を実感出来ると思うからである。このように父への思いは、加齢と共に薄れるどころか、より一層深まっており、それが何よりの供養と思っているのである。
竹内 祐二(52) 愛知県
「地震・雷・火事・おやじ」という言葉がある。世の中の怖いものを集めたものだ。今も、地震、雷、火事は怖いが、おやじに至っては、かなり怖さ度は低下していると思う。かくいう私も、二人の娘の父だが、二人からは、歩く財布とか、休日のトドとか呼ばれてなめられきっている。
そんな私の父は筋金入の昭和の頑固親父だ。どうしてそんなことしたんだ!と言われ、答える前に鉄拳が頭に落ちている。なんでこんなことした!と言われ、理由を答えると、いいわけするな!とまた平手。
学生の時、年上の女性とつきあっていて、その女性が卒業し他県に帰ってしまったのだが、私は夏休み、おいかけて彼女の家に一週間泊まった。帰ってきて、父がなんと言うか、とても怖かった。
「どういうつもりだ!」
その問いに、私は迷いなく
「結婚するつもりだ」
と答えた。すると父は、今まで見たことのない笑顔で
「それならいい」
と、行ってしまった。もし、私が、うーんとかまだわからないなどと言ったら鉄拳だったのだろう。しかし私の覚悟を父も分かってくれたようだった。おかげさまでその時の彼女は今も大切な奥さんである。
2015年入賞作品
「父と私の秘密」狩野 智子(34)群馬県
「大好きなおとうさん」中山 沙香(小3)東京都
「父とオセロ」山本 由美大阪府
「交換日記と三つの約束」大田 真穂(10)三重県
「四十一歳の男の子より」大西 賢(41)東京都
「楽しみにしててねお父さん」増田 陽太(5年生)広島県
「天国の父ちゃんへ」石原 節子(69)岐阜県
狩野 智子(34) 群馬県
「アイスでも食べるか?」
父はニヤリと笑って、駄菓子屋に車を停めた。そうして私に好きなアイスを選ばせ、自分は決まってモナカのアイスを買う。私の小学生当時、これが父と私の密かな楽しみだった。
小学校の入学前健診で「先天性乱視」と診断された私は、六才で眼鏡をかけ始めた。今でこそ眼鏡の小学生は珍しくもないけれど、当時は少数派。学校ではからかわれ、あだ名を付けられ、牛乳瓶底のような分厚いレンズは私の顔にも心にも重くのしかかった。
私の両親はこの子の目を何とかしようと必死だったと思う。車で片道二時間の、『〇〇研究所名』と名の付くような眼科のパイオニアに、月に二回程父に連れられ私は通っていた。診察は平日なので私は学校を早退し、父は職場に半体を取り通った。この眼科の帰りに、父と私はこっそり駄菓子屋へ寄ってアイスを買うのが習慣だった。当時家では、倹約家の母が大容量のバニラアイスしか買ってくれなかった為、父に買ってもらうアイスがとても贅沢で格別なものに感じられた。そして、父とふたりだけの秘密を共有しているようでワクワクしたことを、よく覚えている。
肝心の私の目の方は、様々な検査をし、視力回復のトレーニングのようなこともしたけれど特に効果は出なかった。「また視力が下がった」などと医師に言われれば、父とふたり責められているような気持ちになった。たぶん父は、そういうどんよりした気持ちを少しでも軽くする為に、アイスを買ってくれたのだ。当時の父は働き盛り、会社を休むことも往復の運転も負担だっただろうけれど、いつも父には穏やかな優しさがあった。
視力回復は見込めないと両親が判断したのか、いつしか眼科通いはなくなり、私は思春期と同時に反抗期を迎えた。父に対しても八つ当たりし、ひどい言葉をぶつけた。中三の受験期、一度だけ父に激しく叩かれたことがある。もうそれは、父に暴言を吐いた私が百パーセント悪く、父には何の非もなかった。叩かれている体の痛みよりも、父の悲しみがダイレクトに伝わってきて、心が痛かった。
あの時父に叩かれて、私は自分を省みるこができ、気づいたこともたくさんあった。だから父には感謝しているのだけれど、私に手を上げたことを二十年経った今でも後悔していて、思い出すのも辛いのだと、最近になって母から聞いた。驚いたと同時に、私は本当に父に対して申し訳ない気持ちになった。父は友人や親戚に「よっちゃん(父)は本当に穏やかで優しいなあ。」と言われる度、私を叩いたことを思い出して涙ぐんでしまうのだという。「そんなの私が悪かったから気にしないでって、父さんに言っておいてよ。」とわざと軽い口調で言った私に、母は苦笑いしながら、でも真面目な顔で答えた。
「親っていうのは、そういうもんじゃないのよ。」
親子の関係は近いようで遠く、年々切なさが増してゆく。子が親の気持ちを理解できるようになるには、何て長い時間がかかるのだろう。実家の冷凍庫には、もう大容量タイプのアイスはなく、父が変わらず好きなモナカのアイスが並んでいる。それをかじりながら私が昔の話を切り出したら、やっぱり父は泣いてしまうのだろうか。
昔共有した、ささやかで楽しい秘密と、各々が胸にしまっている秘密。娘に手を上げたことを悔やみ続けている父と、父にそんな思いをさせていることを悔やむ私。それでも、甘く軽やかに溶けていったアイスのようにいつか父の心を溶かしたいと思っている。
中山 沙香(小3) 東京都
「あー。いたー!」
まいごになった時やかくれんぼをする時にはすぐわかる。わたしのお父さんは、柱に頭がぶつかるほど背が高い。しかもつるっぱげである。
「ジージージー。」
「アハハハ。」
二かいから聞こえてくる。あわてて時計を見た。
「五時三十分」いつもより早い時間だ。カーテンのすきまが少しだけ明るい。かい段をドタドタおりていった。おふろばのドアを開ける。
「おはよう。」
「おはよう。」
バリカンを手に持ったお母さんといすにすわっているお父さん。お父さんの頭はけいこうとうの光があたってまぶしい。てっぺんがピカンとひかっている。つるっぱげのかんせいだ。ドアをバッシンと閉める。ソファにあわてていった。ふらふらとたおれこむようによこになる。毎朝この調子である。
「トゥルルル。トゥルルル。トゥルルル。おふろでよんでいます。」
ベルがなる。あわててかけてようふくをほりなげておふろへつっこむ。
「後ろむいて。」
「ゴシゴシゴシ。」
「ジャジャジャ。」
体についているホワホワのせっけんをながす。おとうさんのひざと手の上にねっころがる。かみの毛があわいっぱいになる。シャワーでながす。おふろにぽちゃんととびこむ。
「一、二、三、四、、、十。」
とはやく数える。ドタンとおふろのドアを閉める。
「プカプカ。」
ういている。
「ザッブン。」
と大きななみがあわを立ててやってくる。お父さんのところだけ大きな波がきた。流された。ウキワがひっくりかえり、頭をどーんとぶつけた。
「頭がふらふらする。」
と言って、お父さんは、りくにあがってごろんとした。
仕事がおわってまっすぐに帰ってくるお父さん。いつもわたしをおふろいれてくれる。学校であったことや友だちのこといろいろとおしゃべりする。でもこんなふうにしょっちゅうドジをやっている。
父の日のプレゼントにおり紙でメダルを作りいつもありがとうとメッセージを書いた。次の日、父の日になにをあげるか友だちに聞いた。
「チーズケーキ」
何とお父さんの好きなものだ。家に帰ってお母さんに相だんした。
「いいねぇ。いいねぇ。」
作ることにした。パソコンでしらべ、上がバリバリ下がホワホワなチーズケーキを作った。
父の日の夕方
「父の日おめでとう。」
とプレゼントをわたした。りょうてをあげてよろこぶお父さんのむねに、黄色のメダルがひかっていた。
山本 由美 大阪府
携帯がなった。「オセロ知ってるか」と父。知るも知らないも、夫と連日勝負する日が2年も続いた。先日そのオセロゲームを断捨離したばかり。「どこで売ってるかな?。買いたいんやけど」と父が問う。
会社経営から退き、足腰が弱ってゴルフもできなくなり、専らテレビでひがなー日過ごす父に、母と一緒にデイサービスに行くことを勧めたのは私。通うようになって半年になっていた。そこでオセロを知り、スタッフや仲間と遊ぶ内、父はすっかりはまったらしい。
数日後、私はオセロゲームを買って持参した。早速父と初勝負。勿論父のあっけない負け。全然わかってない。でもあえて沢山のアドバイスはしなかった。回数を重ねる内に自分で学習し、腕を上げていくに違いない。それより私は胸が熱くなった。パーキンソン病で手に震えがある父がオセロを必死で返す。ゆっくりで時間がかかる。でもいい。できることがうれしい。
それからというもの、実家に行く度父との勝負が待っていた。父とオセロする日が来るなんて人生未来図にはなかったことだが、何とも穏やかで優しい光景を享受できる日々が始まった。やがて父はオセロの指南書を購入。最近本もあんまり読まなくなっていたのに、ここまで夢中になるとは。いつ行っても熱心に読んでいると思っていたら、父が私を負かす日も増えてきた。デイサービスでも勝つ回数が増えてきたと言う。
父は旅行バッグにもオセロを入れて、旅先でもオセロ。父とオセロする場面が日常風景となって私は小さな感動を覚えている。仕事ばかりの父とは幼い頃からコミュニケーションも決して多くはなかった。それが今、父とこんなに素敵な時間が持てる。八路を行く父が手を考えている間、私はそっと父を眺めて、大切な時間を吸収している。
父はだんだんうまくなった。父が引き金となって今や通っているデイサービスはオセロブーム。スタッフが親切にもオセロゲームを父の携帯にダウンロードしてくれた。携帯でこんなこともできるのか、と父はただただ感心するやら感激するやら。
若い頃から時代の先端を生き、まだ珍しかった8ミリカメラを趣味にしていた時期もあったが、IT革命には乗り遅れ、ダウンロードと言われても何のことやらわからない。
とにかくその日から、父はインターネットの世界に足を踏み入れ、コンピューターと対戦する初体験を嬉々として受け入れた。暇さえあれば小さな画面を見つめてコンピュ―ターと勝負。ピッ、ピッ、ピピラピピラといつもの電子音がして、父が携帯片手にオセロゲームに興じている。「どう、勝ってる?」と問いかけると、画面から目を離すことなく「楽勝、楽勝」と笑っている。「もっと上級をやりたいな?」と。
先日母が教えてくれた。携帯ゲームが急にできなくなって、父はあわてて一人不自由な足で携帯ショップに出向いたというのだ。原因は充電切れだったという笑い話なのだが、父にとっては大切な携帯ゲーム。1日とてなしには過ごせない。そして私はもう父に勝てなくなっている。悔しいが、うれしくもある。
父がオセロを始めてもうすぐ5年。ついに父はデイサービスで負け知らずのチャンピオンになった。
うれしい発見がある。オセロを返す父の手が早くなったのだ。震えも少なくなった。リハビリにもなっていたのだ。今やオセロは父の一番の趣味となった。手垢で真っ黒になるまでオセロ指南書を読み、若者みたいにケータイでオセロゲームしている。何ともうれしい。
86 歳の父の手は、今日もピッピと携帯キーを押している。勿論アナログオセロにも余念がない。
大田 真穂(10) 三重県
わたしのお父さんは、毎晩仕事がおそくて時々しか話す機会がなく、もっといっぱいお父さんと一緒に、学校であったことを話したいのに話すことができない毎日でした。そんなことがずっと続いていて、お父さんが「交かん日記やらんか?」と聞いてきました。私は、めんどくさがりやし、長文書かないといけないと思っていたので気が乗らなくて、「えぇー。」とやる気のない声を出しました。そりゃ、お父さんとしゃべりたいけど交かん日記だと直接いうのと文章では、あんまり伝わらんのじゃないのかなぁと思い、でもお父さんとしゃべりたいしなぁっていう中途はんぱな気持ちがあったからです。でも、けっきょくお父さんは前向きな人なので「いやっやる!」と言って交換日記をすることになりました。替わりばんこで私が最初に書くことになりました。内容は、「今日、学校でみんなとあそんだよ。」で終わりみたいな短い文でてきとうに書いていたのに、お父さんは一生けん命返事を書いてくれました。仕事でおもしろかったこととか、私たちの学校であったことの質問とか、絵もいっぱい書いてくれてありました。すべて、私のために。私がすこしでも日記を書くのが楽しくなるように。そういうことが初めてわかって、だからあの時お父さんは日記を書くのをあきらめないで私に言ってくれたんだなと思いました。そういうおとうさんのさりげない優しさが大好きです。そして、私だけやる気がなくて日記を書いていたらいかんなぁと思って心から書くことにしました。1年生から今までずっと日記を書き続けています。前に書いていた日記を見返してみると字がへたくそやなぁと思ったりこんなことあったんやと思って見ていました。きっと大人になった時この日記が小学校の時の思い出になるんかなぁと思いました。
交換日記を始めた時に、お父さんと私で三つの約束をしました。それは、うそをつかない、弱いものをいじめてはいけない、そして自分に負けないということです。お父さんに、「この約束は大人になっても必要なことだからずっとお父さんとの約束としておぼえておくようにな。」と言われました。かんたんそうでむずかしくて今だに、守れなかったり、約束の意味が分からなかったりすることもあります。でも、この三つの約束をきちんと守れて約束の本当の意味を理解してこれからもお父さんと交換日記を続けていきたいです。
大西 賢(41) 東京都
父は酒とパチンコを好む剛胆な遊び人だが、弱点が一つある。私である。息子の私のこととなると、とたんに心配性になる。
私が高校三年のとき、自転車で東京から鹿児島まで行く計画を立てたことがある。
「俺も男だから分かるぞ。旅は男のロマンだ」
父は最初はそんなことを言って応援してくれていたが、いざ自転車も荷物も揃え、旅支度が着々と進んでいくと急に不安そうな顔になり、
「今の日本はどこへ行っても車だらけで危ない。一人で自転車旅行なんて、父さんは許さんぞ!」
などと言い出し、家族のなかで一番の強硬な反対派になった。母も兄弟も、
「今しかできない冒険だから」
などと言って認めてくれたのだが、出発前日まで父は反対し続けた。
「自転車旅行をあきらめるなら、銀座で高級な靴を買ってやる」などと最後には妥協案まで持ち出す始末だった。麻雀で十万円負けても平気な顔をしている父だが、私のこととなるとてんで弱い。
結局、私は父の反対を押し切って自転車旅行に出てしまうのだが、それから帰宅するまでの一ヶ月半、父は心配で夜も眠れなかったらしい。深夜に救急車のサイレンが聞こえると、私が交通事故に遭ったのではないかと思い、飛び起きたという。東京に帰ってそんな話を聞いたとき、正直、私は感動も感謝もしなかった。父を心配させているということが、私の「半人前」を証明しているような気がしたからである。
「お前のことが心配で、父さんは眠れなかったよ」
などと言われると、まるで自分が小さい男の子になってしまったようで、情けなさすら感じた。十八歳にもなって父親を心配させているということは、私の自尊心を傷付けた。父親から心配されないような成熟した男になりたいと、いつも思っていた。
ところが、である。私が二十歳になっても三十歳になっても、父は私のことを心配し続けた。年をとれば父はいずれ息子の心配などしなくなると思っていたのだが、その予想ははずれ、私が四十一歳になった今も、昔と変わらない心配を続けている。
先日、実家に行く用事があったのだが、途中で寄り道をしてしまい、予定の時間より十五分ほど遅くなってしまった。十五分ぐらい何でもなかろうと思って連絡もしなかったのだが、夕暮れの歩道を実家に向かって歩いていると、前方から父に似た老人がやってくる。
父だった。私を見つけると、なくした財布を見つけたような大げさなため息をついて、こう言った。
「予定の時間が過ぎてもお前が来ないから、心配で探しに来たんだ。前からお前に似た男の子が来たから、ホッとしたよ」
遅いといってもたかが十五分である。何を大げさなと思ったが、それより驚いたのは「男の子」という言葉だ。四十を過ぎても、父にとっては私は「男の子」なのだ。
たぶん、父はこれからもずっと私のことを心配し続けるだろう。そしてこれからもずっと、私のことを「男の子」だと思い続けていくのだろう。それは子供扱いされているようでやや屈辱的でもあるが、それ以上に嬉しいことだと思う。中年の息子が予定より十五分遅くなっただけで家にいられず、探しに来る父親。そんな父親を持ったことを、私は今、とても幸福に感じている。
およそ現実味のないことだけれど、父がもっと高齢になって寝たきりになっても、救急車のサイレンが聞こえたら飛び起きてくれるのではないかという期待がある。ベッドからまったく動けなくなっても、来るのが遅かったら、
「息子が事故にでも遭ったのではないか」
などと言って探しに来てくれるのではないか。私にはそんな期待がある。どんなときも父は私のことを心配してくれた。その前例が、私の期待をここまで大きくしている。
四十歳を過ぎても「男の子」と呼ばれるのは、男子として不名誉なことである。だが、それ以上に、私のことをそこまで心配してくれる父に感謝している。
身を案じてくれる人がいるということは、誰にとっても幸福なことだ。
父さん、今まで心配し続けてくれてありがとう。
これからも、ずっと俺のことを心配してくれよな。
増田 陽太(5年生) 広島県
「おっ。めずらしっ。」
ふだんは、全く雑誌を買わず、本ばかり読んでいる父が、ビジネス雑誌を買ってきた。
「へぇ~」
手に取ってながめてみると、その雑誌には、読者アンケートがあって、抽選で当たると、プレゼント商品がもらえるらしい。中身をしっかり読んだ後に、父もこの読者アンケートをすることにした。
すぐに父はペンを取って、十一問あるアンケート用紙になにやら書きはじめた。ペンを持つ手に力がこもっている。とても熱心にほかのページを見ながら丁寧に書き込んでいる。
「よっぽどほしくてたまらん商品があるなぁ」
「当たってくれ」
僕は、父の狙っている商品がきっと当たることを願いながらアンケート用紙ながめていた。そして、数十分後。
「よし!!」
父が、ようやく十一問アンケートに答え終わったようだ。父がなんのプレゼント商品を選ぶのか見るために、家族全員父のもとに集まった。
「何選ぶん?」
「これから決める。」
「え・・・これから!?」
プレゼント商品を選ぶのは、どうやらこれからのようだ。
「いい商品あるんかなぁ。」
僕も母も、自分の商品を選ぶかのようにキラキラと目を輝かせて、商品のたくさんのっているページを探した。
「おっ。あったあった」
いろいろなプレゼント商品が写真などで紹介してある。
「どれどれ。ほしい物はあるかなぁ。」
かたっぱしから順に一つずつ目を通していく。商品の特徴や説明も全て読んでいった。
「ん?何やこれ。」
三人とも、プレゼント商品に目をうたがった。見てみれば、消臭スプレーや、頭を洗うブラシなどばかり。掃除機などの電化製品は、一つもなかった。
「この消臭スプレー、そこら辺のスーパーで売ってるの見たことがある。どこでもかんたんに手に入れられるやん。」
コンフォートホテルの宿泊券はペアだから、家族だれかひとり泊まることができないのでダメ。アクションスリラーのDVDは父が見ないのでダメ。ビールなら好きだけど、日本酒は父は飲まないのでダメ。
「お父さんの好きなスーパードライの詰め合わせみたいなんあったらよかったのになぁ。」「じゃぁお父さんのほしいものないやんか。」
家族全員苦笑い。しばらくちんもくが流れた。
そして父が沈黙を破った。
「こんなしょうもないもんで、個人情報売るんやったらやめるわ」
「先にプレゼント商品の内容を見てたらアンケートしなくてよかったのに。おっちょこちょいやなぁお父さん。ふぅ~」
みんなため息をついた。そして、結局読者アンケートは辞めた。父は無言でアンケート用紙をくしゃくしゃにまるめて、ボールを投げるようにしてゴミ箱に入れた。
「せっかくやったのになぁ。」
僕は、笑いをこらえて言った。空気の読めない母は、大爆笑している。
「お父さんかわいそぅ」
僕は、父に自分でプレゼントしたいと思った。
「そうだ!!」
父は阪神タイガースの大ファンで、野球を見るのがとても好き。だから選手が最も近くで見られる年間予約席を自分でコツコツ貯めたお金で買ってあげたい。それも僕と父の二席。
「お父さん。楽しみに待っててね」
そのチケットはとても高い。だからコツコツ貯めていつか父の日にプレゼントしたい。僕はもらったおこずかいをすぐ、父の喜んでいる顔を想像しながら、貯金箱にそっと入れた。
石原 節子(69) 岐阜県
昭和30年頃、日本は一番大変な時代でした。父は8人を養っていく為に町工場の荷作り班で、早出、残業、盆と正月だけ休みという厳しい生き方をしていました。残業の弁当を届けに行くのは女の子の私の仕事でした。小柄な父が大きな木箱を背にトラックの荷台一生懸命運ぶ背を私はずっとみてきて、父ちゃんかっこいい!と思ってきました。
私が中学二年生の梅雨時の出来事でした。朝学校に行く時、母が台所から「節子、中学は遠いで傘、届けてやれんで持っていけ」と。私は母の言葉などまったく無視して、さっさと家を出てきた。昼休み、私の机のまわりに仲良しの二人が楽しそうに話しています。窓の外を見ると激しく雨が降り始めました。とっても気になりました。どうして母ちゃんの言う事を聞かなかったのか・・・・
教室のドアの近くに、男子が数人ふざけて遊んでいた。その中に最近好意を持ちかけていたA男君がいました。その時です。ドアが開き、そこに汚れた作業着を着た父が男物の黒い傘を手に私を探している姿を見たのでした。私は夢中でした。走っていって父の手から傘を“ざっと”取り怖い顔をして廊下を走っていったのでした。教室に戻って窓の外を見ると雨の中を古い自転車にカッパを着て急いで工場の方に走る悲しい父の背を見たのです。涙があふれてきました。どうしてありがとう!と感謝の言葉を伝えてやれなかったのか・・・
父は30分の貴重な弁当の時間に、私のために傘を届けてくれたのでした。この光景は、私の脳裏の中にずっとありました。都会で苦学している時も、いつも勇気づけられました。
22歳の時、私は故郷でよきパートナーを見つけて、4人の子のために厳しい苦労をしてきてくれた父にかわいい孫といっぱい触れ合わせてやりたいと主人との結婚を決意しました。父は一人娘の花嫁姿をとても楽しみにして指折り数えて待っていましたが、神様はそんな父にひどい仕打ちをされました。式の2か月前“急死”という別れを・・・
わたしは天国の父に幸せな私の姿をいっぱい見せてやりたいと、大好きな仕事、幸せな2世帯暮らし46年間、送ってきました。
ありがとう 父ちゃん
節子はこの町で一番幸せな69才だと思っています!
2014年入賞作品
「最高だよ、父さん」鈴木 美紀(中3)宮城県
「ごめんねとうさん」土屋 春美(55)東京都
「落語的父親自慢」佐々木 幹雄(56)東京都
「詫び状」為房 梅子(65)岡山県
「わたしのおとうさん」髙信 紫花(小2)福島県
「父と日記帳」白岩 麻里子(51)東京都
鈴木 美紀(中3) 宮城県
「今日は一日ゆっくり寝てなさい」
そう言って父さんが出て行った。
ガーン、そうなの嫌だよ。
父さんの看病受けるなんて。
何だって母さんいないのさ。
「少し静かに、
熱があって寝てるっつーのに」
怒られているのは誰?
妹かな?
ひょっとして兄ちゃん?
意外なところで姉ちゃんかな?
あー、そんなこと
どうでもいいや。
天井を見ているだけの私には、
関係のないことだから。
家の中がシーンとなった。
どうやら誰もいないらしい。
私は父さん呼んだけど、
庭仕事している父さんの耳には
このかすれ声は届かない。
父さんの影はこの窓から、
ちらりふわりと映るのに。
体の中でバイキンが、
燃えろよ燃えろ
キャンプファイヤーしているよう。
頭の中ではウィルスが、
パカーンガツーン
お構いなしに薪を割る。
父さん早く火を消して。
今すぐナタを取り上げて。
喉には煙がこもってる。
この騒ぎ鎮めて楽させて。
どこもかしこも
ジンジンガンガン。
こんなに熱くて苦しいのに、
「みのり?こんなにいい天気なのに風邪で寝てるんですよ」
脳天気な声が聞こえてくる。
(ジュワー)
私の心に雨が降る。
涙となって川となる。
予想外のどしゃぶりで、
川は氾濫、大洪水。
私は流れに身を任せ、
溺れて意識が遠のいた。
どのくらいの時間が経ったのか。
「みのり、みのり」
聞き覚えのある温かい声。
ああ、声の主は父さんか。
私は体にスイッチ入り、
ゆっくりゆっくり目を開ける。
真っ先に飛び込む父さんの顔。
輪郭ふやけて見えたけど
柔和な顔が飛び込んだ。
「おかゆ、作ったから食べなさい」
「食べれるか?」
「起きれるか?」
ありがとう、父さん。
嬉しいよ。
「ん?何で泣いてるんだ?具合悪いのか?」
「おかゆ、そんなにまずいか?やっぱ母さんみたいにおいしく作れないな」
ううん、父さん
おいしいよ、最高だよ。
土屋 春美(55) 東京都
若い頃の父の写真があります。
白いヘルメットをかぶって、手にはスコップを持っています。顔はさわやかな満面の笑顔です。
今ではとても好きな写真ですが、子供時代は複雑な気持ちでその写真を見ていました。父は北海道の開拓農家の生まれで、十人兄弟の八番目でした。
その当時、そういう家庭の子供の多くは学校を卒業すると、家の手伝いか、または生活費を稼ぐためにすぐに働きました。父も小学校を出ると、すぐに家の仕事を手伝いました。
母と結婚してからは、独立して同じ町の親とは別の集落で農地を手に入れ、畑作をはじめました。
しかし、子供がつぎつぎと生まれ、小さな耕作地からの収入では子供達に満足に教育を受けさせることもできないからと夫婦で話し合って、離農して町に出ることになりました。父も母も、まだ三十歳前後でした。
町中で、家族が暮らしていける賃金をもらうためには、力仕事をするしかありませんでした。父は、山で木を切り出す仕事や、道路工事の仕事などをし、母は、農家の手伝いなどで毎日朝早くから日が暮れるまで働きました。
父は雪が降る季節になると、雪のない関東圏に出稼ぎにも出ました。
私が町中の小学校に上がると、同級生の多くは商店の子供や、サラリーマンの子供が多く、私の父のような労働者はそんなにいないようでした。話を聞くと、どのお父さんも、みんな私の父より品がよく知的に思えました。
今にして思えば、どんな仕事をしているお父さんだって、そんなに違いはないと思えるのですが、その頃の私は、いつも泥だらけになっいている父が恥ずかしくて仕方ありませんでした。
父は何も悪くないのに、町中で友達といるときに仕事帰りの父に声をかけられたりすると、ふてくされたような顔をしてしまったこともありました。
父は、そんな私の態度に気づいていたのかどうかはわかりません。
ヘルメットの父の写真は、その頃の一枚です。
父は子供達が皆、学校を終え就職し、年金をもらうようになるまで、ずっと力仕事で働き続けていました。
そして年金生活の今でも、時々町から依頼で蜂退治の仕事などをしています。暇なときは、自転車にまたがり何キロも走って知り合いに会いに行ったりする元気な人です。
無邪気な顔で近所の人や家族に笑いかける父の顔は、写真の頃とほとんど変わりません。とうさん、私は思うのです。
あなたの人生が、他の誰より誇らしくさえある、汚れない輝きに満ちたものであることに、あの写真を見たときから本当は私にもわかっていたんですよ。ちゃんとわかっていたんです。
佐々木 幹雄(56) 東京都
うちの親父ですか?本当にしょうがないとしか言いようがない人間でしたね。医者が大嫌いで、若い頃は健脚を誇ってたのが、歩くこともままならないほどあちこち調子悪くなっても、絶対に病院には行きませんでしたね。結局、肝硬変でポックリ。朝気がついたら、畳の上で大往生。
えっ?健脚というのは、陸上の選手だったんですよ、若い頃。大したことはないですよ。ちょっと箱根の駅伝に出たくらいで・・・五区ですよ、ほら柏原が記録作った登りの。区間新を作った訳じゃないですし。まぁ、二年続けて出たらしいですけど。そんなに驚くほどじゃないですよ。年とってからは酒ばかり飲んでいる酔っぱらいでしたよ。そういえば、シニアでも走ってましたね。還暦過ぎてフルマラソンに出たりして。「走ったあとのビールはうまい」って言ってましたから、うまい酒を呑むために走ってたようなもんじゃないの。
いや、酒ばかり飲んでたけど、身を持ち崩すって程では・・・オイラも兄貴もちゃんと大学行かせてもらったから。あまり会話はなかったけど、年に一回手紙をくれたね。それが達筆過ぎて全く読めないんだよ、書道やってたからね。うーん、確か四段だったかな。そんなに凄い?たいしたことないって。
あはは、確かに劣性遺伝。悪かったね、こちとら、スポーツも字も不自由と言われ続けて五十余年、なんてね。
やっぱり親父は大したもんだったね。「さっき、しょうがない」って言っただろって?そりゃ、謙遜ってもんだろ。何だよ、うちの親父のこと悪く言うの?俺のことはいいけど、親父に文句言う奴は許さないぞ。
何?酒?酒ならお前も飲むだろ。必死に走ったり、一生懸命仕事した後、キーンと冷えたビールほどうまいもんはないだろ。
あんたオイラの話をきいてなかったのかい?箱根の駅伝、登りの五区だぞ。あんただったら歩いても登れないだろ。オイラもそうだけど。それを、真冬にランニングに短パン、靴だって柏原みたいに科学の粋を尽くしたものなんかじゃないぞ。粗末な靴で走って二人も抜いたんだぞ。
だいたいあんたの字はなんだよ。ミミズがはいつくばったような字を書いて。ああ、オイラも下手だよ、左手で書いたんですかって、よく嫌みを言われたよ。でもさ、親父は書道家なんだから。さながら、走る書道家だ。
親父は、日本一、いや世界一の親父なんだよ。女房と兄貴とオイラのために、黙って必死に働いて・・・うう・・・泣いてんじゃねえ、目から昨日飲んだビールが出て来ただけだ。
為房 梅子(65) 岡山県
父の中の「不肖の娘」が、「不肖の娘だ」に代わったのはいつの頃からだろうか。思い出せもしない。それなのにふっと「父と同じ嗜好を持っている」と気づくこともある。歳を重ねるとは色々含んでのことかと「はっ」としたりもする。
三歳違いの姉と弟に挟まれた「次女」として産まれたのが私で、父は平たく言えば御養子さん。父の使命は何が何でも「男子」を「跡取りを」作ること。
弟は私と四歳違いて産まれた。父はその四年もの間どんな思いでいたのだろうか。
あの日のことは覚えている。
あの日とは弟が産まれた日のことである。
四歳の少し前で、還暦を過ぎた今でも私の記憶にははっきりと止まっている。
お産には男は邪魔だとでも言われたのか、父は朝早くから自転車の前に子供用の椅子を設え、私を乗せてつばめのように風を切っていた。
望んでいた男子がやっと生まれたのだ。
「子どもが産まれてなあ」
見上げた父の鼻が思いっきり膨らんでいた。
「要さん、そりゃあ、そりゃぁ」
おじさんは手を取らんばかりに破顔した。
「おとごでなぁ」
また、父の鼻が膨らむ。
「そりゃあ二重のおめでたじゃぁが」
おじさんの笑顔の顔がいっそう崩れる。
「へへへ」
父の親友とも言える電機屋さんの店先での会話であった。
三つ子の魂とでもいうのか、鼓動を震わすような高揚した父の声が頭上を飛んだ。私の知る限り、父が感情の高ぶりを見せたのは後にも先にもこの日だけのような気がする。いつもは静かで無口な父であるからだ。だが、それ以後我が子をその手に抱いたことがあったのだろうか。父にはなかったのかも知れない。種馬のような扱いの父からは文句も愚痴も私は聞いた事がなかった。
いつも弟の後には影のように祖父がいた。目の中に入れても痛くない諺通りに、祖父は片時も跡継ぎの男孫からは目を離すことはなかった。いつの間にか祖父は百姓仕事もそっちのけで、ひたすら子守り役に専念した。そんな祖父を私は冷ややかに見ていた。そんなだから、長女の予備軍のような私は尚更母からは嫌われた。
そんな立場の私の寂しさと御養子さんの父の気持ちが呼び合ったとでも言うのか、どこに行くにも父は私を連れ歩いた。それはまるで祖父を真似ているようだった。
父は映画が好きで観るのは洋画と決まっていた。字幕も読めない幼さでも父と一緒は楽しかった。お菓子の一つも買ってもらえないのに嫌だと思った記憶もない。絵本もない職後、父の借りて来る本の中の平仮名だけを拾い読みをしても悦楽だった。長じて洋画が好きで読書に幸せを見いだす娘に育ち、父の口笛のジャズのリズムに身を委ねる至福の時をも知った。つまり私の中にだけ父が存在しているような気がしていた。それなのに思春期のなせる技なのか、将又母の言うような捻くれ者なのか、いつの間にかあれほど慕っていた父の心とはすれ違ってしまった。
父の望みとは正反対のような男と結婚し、気づけば父に不肖の娘だと言わせるように振る舞っていた。父の心情など少しも思いやる気持ちをあの時分は持ち合わせていなかった。若さとは残酷でもある。
二人の息子は父の膝の暖かさも知らなければ連れ歩いてもらうこともなかった。ただ、実家では疎んじられている存在の母親を幼かったとは言え二人の息子たちは感じていたのかも知れない。
父や祖母の気持ちとは裏腹に母からは邪険にされ、疎んじられていたからだ。
最近になって父の中にあった「不肖の娘だ」が重くのしかかる。
漸く父の懐の深さ、その度量の大きさに気づいていてももう遅いのだ。いくら弁解したくても父には現世ではもうできないからだ。「不肖の娘だ」とのレッテルを貼られてこれからの残りを生きていくしかないのだ。
親族やましてや他人に何と思われようが私には痛くも辛くもない。だが、できるものならば父にだけは弁解したかった。
「父さん、ごめんね。不肖の娘の詫び状だけは受け取って欲しいのです」と。
髙信 紫花(小2) 福島県
わたしのおとうさんは、たんしんふにんをしています。
おかあさんは、おとうさんのぶんまでがんばっておうちのことをしてくれています。
この前おとうとが
「パパがいないとさみしい。」
と言って、おかあさんをこまらせました。
それからまい朝おとうさんはおうちにでん話をかけてくれます。
いつもは、私が学校に行った後にかけてくるので、わたしは、お話ができません。でも今日はやっと話ができました。
たくさんお話することがあったのに、とてもうれしくて何を話していいのかわからなくなってしまいました。
「あのね、パパ、え~と。え~と。」
「なぁに。」
「えーと、わすれちゃった。」
「じゃあ今どいっぱい話そうよ。」
今どは、わすれないでぜんぶ話せたらいいなあと思います。
白岩 麻里子(51) 東京都
田舎に帰省するたびに、いつも目にする光景は、八十三歳の父が毎日、分厚い日記帳をめくりながら、「去年は何日に帰ってきているな。」とか、「去年の今日は、こんなことがあった」とか、一人でつぶやいていることである。いつもの光景だったが、なぜか今年、父に尋ねてみた。「お父さん、いつから日記をつけているの?」「もうかれこれ五十年以上かなぁ。」と、父はぽつりとつぶやくように答えた。そういえば、私が物心付く頃には父はいつも日記をつけていた。そして買い替える時はいつも三年分書くことのできる分厚い日記帳である。
なぜか今年は妙に感慨深いものがこみあげてきた。「同じことを五十年以上続けることはすごいことだね。」私は心底そう思い、思わず口に出た。父は苦笑いをしながら、「お父さんは、これ以上に何も能力がないからね。」と照れくさそうにポツリと言った。
思えば、私が二十代の頃、世の中はバブル景気だった。会社には周囲にバリバリと働く元気な男性がたくさんいた。父はおとなしい性格で、とても仕事ができるタイプではなかった。仕事のできる上司と父を比較し、私は無口な父と、ろくに口もきかなかった。それどころか、父の問いかけに返事もしないことも多かった。
父は定年後、のんびり家にいるが、日記だけは欠かさずつけるのを、私は横目で見てきた。
私が東京で一人暮らしをするようになってからは、父からハガキがよく届いた。ハガキの裏面に、いつも小さい字でびっしりと書いてきた。内容はその日にあったこと、気候のことなど、他愛もないことだけだった。そしていつも最後に、私が元気で働いているから、お父さんはいつも安心している、と言うものだった。最初の頃、あまりにびっしりと文字が書かれているので、読むのも面倒で斜め読みでざっと流し、返事も出さなかった。もう、たびたび送ってこないで、なんて思っていた。それでも、バレンタインデーの前には、チョコレートくらい送ってやろうと、適当に選んで送ったこともある。すると、一か月後のホワイトデーにマシュマロが二袋も届いた。さすがにうれしいというよりも、同じものを二袋もいらない、ありがた迷惑に思ったこともある。
そんなふうに、今まで特に父の存在を意識することもなく、おとなしい父を半ばさげすみに近い気持ちで接していた。それなのに、今、目の前の白髪の姿を見て、すごいと思えるのはどうしてなのだろう。
時の流れが私をも変えた。半世紀を生きてきた私。そして、今だから父の歴史、そしてこれまでの父の苦労を理解できる。
私の誕生日に、また父からハガキが届いた。そこには、「誕生日おめでとう。誕生の日はお母さんが一番苦しんだ日。だから生まれてきたことを、お母さんに感謝してね。」と書かれてあった。私はその瞬間、はっと目が覚めたように、その言葉に納得した。同時に母親に対しても新たな思いが込み上げてきた。そして、平凡な家庭、平凡な両親だけれど、改めてこの父と母の子どもに生まれてよかった、と神様に感謝した。
これまで、自分のやりたいように生きてきて、親の忠告にも耳を貸さなかった。そして未だに結婚もせず、親元を離れ自由気ままに暮らし、親に心配ばかりかけている。でも、心の中ではいつも親不孝な娘で申し訳ないと思っている。
父は相変わらず、時々日記帳のページをめくりながら、毎日のように日記をつけている。周りで何が起きても、何を言われようとも、ただ黙々と書き続けている。
父は、あの頃の私の傲慢さを許してくれるだろうか?
でも、もしかして鈍感な父は私があの頃、父を無視していた事さえ気づいていないのかもしれない。
そうであってほしい。
でも、そんなことより、ただ、何より今、父の偉大さを確信出来てよかった。今、目の前にいる父の姿を見て、そう気付いてよかった。
父に今の私の思いは伝わっているだろうか?
これからも今のままの父でいい。ただただ元気で日記を書き続けていってほしい。
2013年入賞作品
「父のブーツ」鬼塚 君枝(57)福岡県
「父親前夜」齋藤 俊介東京都
「言問橋から、心の父へ」印南 房吉(83)神奈川県
「ダンゴムシおやこ」田口 吉一(6)大阪府
「二十八歳になってわかること」堀江 千春(28)東京都
「オトンとお父さん」西澤 傑(25)東京都
「父の靴」中村 真理子(27)大阪府
鬼塚 君枝(57) 福岡県
押し入れにしまっていた父のブーツを取り出して、
「だれか、はかんね?」
と母が言った。父が亡くなった後、箱に入れて、しまい込んでいた黒い革のブーツ。まだ新品のようにきれいにしていた。
「えェ?だれも履かんやろう。」
私は、そう言いながら家に持ってかえった。
主人には大きく、息子には小さい父のブーツを、私は仕事場の片隅にオブジェのように飾っている。35年前のものとは思えない程きれいにしている。それを見ると、遠いあの頃の父を思い出す。
母は毎朝、父が出勤する前に車を洗って、靴を磨いて、それを玄関に並べて送り出していた。それは母の日課だった。私は小学生の頃、母は体が弱くて寝込んでいる時間があった。漢方薬を煎じて飲んでいたので、小さな家の中ににおいがこもっていた。ある日、学校帰りに家に入らず玄関の外に立っていたら、父が帰ってきた。父に、
「なんで、はいらんとね?」
と、言われ、
「だって、くさいもん!」
と、私が言うと、父は静かに、
「きみえちゃんは、匂いだけで、臭い、臭いって言っとうけど、おかあさんはその臭い薬を口から入れようとよ。」
と、言った。私はハッとして、心の中で、(お母さんごめんなさい)と、思った。
優しい父だった。優しすぎて病魔に負けたのか。私が大学4年生の時、父は、胃がんが見つかって、私が通っていた大学の病院に入院した。大きかった父は、すっかり痩せてしまった。私の手首を握って、
「なんキロ?同じ位になったろ?」
と、苦笑いした。私は泣きそうになったのを我慢した。学校帰りに毎日病院に寄った。外資系の航空会社を受験して落ちた時、
「ごめんね、お父さんにコネがなくて。そんな所はコネがないと合格せんくさ。」
と、慰めてくれた父。
でも、お父さん、私は次の年、その会社に入社したのよ。おとうさんに伝えたかった。私が大学を卒業して三カ月で父は亡くなった。病院のロビーで写った式後の写真。振り袖の私と、?せてしまったガウン姿の父が最後の写真となってしまった。
入院前は、なぜかよく父母と私は三人で小旅行に行った。まもなく来るであろう別離を父は感じていたのか。最後に言った萩では、泊まるところがなくて、小さな民宿に泊まった。山と田んぼがみえる小さな部屋に三人並んで寝た。今度は、私の運転で天草に行こう、と約束したのに、果たせないまま、終わってしまった。
建築業をしていた父が手がけた建物が街のあちこちに残って、その歴史を物語っている。しかし、新しい道路建設のために解体されたい、老朽化で壊されたビルもある。父が建てた我が家も無くなり、今ではバイパスの下に思い出を封じ込めている。父の魂のかけらがひとつずつ消えていって、記憶の粒もちいさくなって行く。それなのに、わたしの傍らにあるブーツは、あの頃と同じように父を待っているかに見える。そこだけ時が止まっているかのように。ピカピカに磨かれた父のブーツを見ると、私は父を恋しいあの頃の自分になってしまう。
齋藤 俊介 東京都
ぼくの箸と親父の箸が一枚の刺身をつまんだ。親父はムスっとしたままそれをぼくに譲ってくれた。母親はそれを見てクスッと笑う。
親父はとても寡黙な人だ。晩酌の時でさえニコリともしない。そんな親父が昔から不気味で怖くて苦手だったけれど、嫌いじゃなかった。
親父は航空整備士だった。ぼくの物心のついたときには働き盛りだったから夜勤と日勤を繰り返していて殆ど食事を共にすることもなかったし、親父がどんな人でどんな仕事をしているのかも子どものぼくにはさっぱりだった。時々ランドセルを置きに帰った午後夜勤前の親父と遭遇した。親父はいつも英語だらけの小難しそうな書類にマーカーを引いていたけれど、ぼくの顔を見やるやパタンとファイルを閉じて「おかえり」の代わりに軽く頷く。毎度のことながらぼくは驚いて「ただいま」も言わず急いで遊び場へ逃げ出したのを思い出す。そんな親父との関係だったから、親父の仕事ぶりを直接に見たのはずいぶん後になってからだ。二十歳に少しばかり毛の生えた頃、当然将来に思い悩んだぼくは勝手に退学を決めてしまった。何気なく母親に切り出すと案の定烈火の如く怒り狂い泣き叫んだ。そうしてぽつり「お父さんに直接言いなさい」と。親父にだけは完全に事後報告にしたかったけれど、母親の乱れっぷりに負けて親父に会いに行った。親父は当時四国の空港に単身赴任していたから、ぼくの突然の訪問の打診に慌てたようだったが、到着日時を確認するとあとは何事もなかったように電話を切った。到着してすぐにぼくは指定された場所に行った。そこは瀬戸内の海が一望できる高台の店で、親父はすでに座して茶をすすっていた。ぼくの顔を見るなりいつもの「おかえり」替わりの一頷き。ぼくは緊張して問面に座す。「海が良いだろう?」窓の遠くを見ながら珍しく親父から口を開いた。「今から行くからな、あそこ」それだけ言うとぼくのコーヒーが飲み終わらないうちにそそくさと車に乗り込んでしまった。瀬戸内の沖で親父とぼくは釣り糸を垂らしていた。「ここはな、アジの穴場だ」そう言う親父は子どもみたいに笑っていた。漁船に乗ってからずっと親父は楽しそうで、釣りを知らないぼくに何から何まで教えてくれた。そして夕暮の頃には大漁のアジとともにゆったりと浜を目指していた。親父は沖合の方を見ながら妙に穏やかな口調で言った。「話、あんだろ?」突然のことにくちごもっているぼくに「いいよ、分かったから。好きにすればいいさ。でもな、夢ってのはきっと、船を進めるためのガソリンみたいなもんじゃないか?ガソリンばっかあっても船がねえんじゃ仕方ねえ気もするんだよ。よく分からねえけど、な」それきり親父は口を噤んでしまった。話はもう終わったんだ、ぼくは生まれてはじめてちゃんと親父の言葉を聞いた気がした。
かえりの便を待つ間、ぼんやりとジェット機の準備を眺めていた。ツナギ姿の幾人かが何やらせかせかと作業をしていた。その一人が親父だった。機内に乗り込み窓から親父の作業を見ていた。瀬戸内の沖で見せた顔とは打って変わった引き締まった表情に何故かぼくも緊張した。あらかたの作業も終わりやがて飛行機は離陸体制に入った。その時親父は飛行機に敬礼をしていた。今もう一度それを見たら多分吹き出してしまうと思うけれど、その瞬間のぼくには直立した親父の姿が誇らしいものに見えた。高度三千m上空でどうしてか涙が止まらなかった。
もうすぐぼくは親父になろうとしている。けれども父親というもののイメージが上手く持てない。きっと寡黙で子供から怖がられて、それでも子供に甘くて、一晩僅かな酒で気持ち良くなってソファで鼾をかくんだろう。たった今目の前でぐうすか鼾をかいて眠るソファの初老のその人に、そっと毛布をかけながら、急に「ありがとう」と言いたくなった。
印南 房吉(83) 神奈川県
お父さん、暫らく振りに言問橋に来ました。一見一驚、期待通りでしたよ。あのスカイツリーが言問橋の巾でニョキョッと聳えていました。いや一言、言問橋が立ち上がってスカイツリーになったんですね。鉄骨がビッシリ組んで空を刺したと云った具合ですね。東京の新しいシンボルに間違い有りません。
ゆっくり渡りました。あの日と同じ様に橋の下を風が吹き抜け広々とした隅田川、実は今日三月二日はお父さんと並んで橋を渡った紀念日なんですよ、憶えていますか、私の中学合格発表の朝なんですよ。起き抜け突然「一緒に行こう」と他の約束を全部断って黙々と橋を渡りました。ポンポン船が艀を五杯、音ばっかり景気良く曳いて川を遡っていました。橋を降りて墨堤の未だ固い桜並木を言問団子の方に先刻のポンポン船と並んで歩きましたっけ、正直、合格しているかどうかが胸につっかえていました。
日段減多に笑わないお父さんが私の番号を素早くチェックして
「アッタゾー、おい、アッター」
と大声をあげニヤリとしました、私も嬉しさドッと胸一杯、帰り道、角の大きな蓄麦屋に入り「好きなモノ食べなよ、腹あ減ったな」とメニューも見ずに「俺は抜きで一本」と奥に云いました。私は此の時とばかり上天井、それにしても抜きで一本とは何だろかとメニューを見ても判りませんでした。来た、上天井!金色の大丼、大きな蓋を取るとフワーツと素晴らしい香り、ヤッター、以来外で食べる時は何処でも天丼、今でもそうです。お父さんの「抜きで一本」は何とメシ抜きの天丼の事で大エビ三本の天婦羅に熱燗一本でした。お父さんは自分でトコトコ注ぐとクイッと一口。「ウン、良かったな、オイ良かったなあ」と何度も頷きトコトコ注いではクイッと旨そうでした。私は大きくなったら蕎麦屋で「抜きで一本」と注文しようと思いましたがこの齢になっても遂々云えません、お父さんはヤッパリ浅草でしたね。
お父さん、今度桜の時分に来ます。お母さんが好きだった隅川の花吹雪、そして流れる花筏、無性に懐かしくなりました。
田口 吉一(6) 大阪府
テレビで、ロンドンオリンピックをみていたら、たいそうせんしゅが、しろいだいのうえを、かっこよくとんでいた。「これなに?」ときくと、おかあさんが「ちょうばよ。はこのうえをとぶ、とびばこににてるね。」といった。しごとからかえってきたおとうさんに、「ぼくもとびばこしたい。」というと、「ばんごはんのあとならいいよ。」といってくれた。ごはんがおわると、おとうさんは、たたみのうえにすわって、てであたまをかくして、まるくなった。おとうさんは、からだがおおきいので、おおきいダンゴムシみたいだった。おちたらいたいかなとおもって、こわかったけど、おとうさんが「だいじょうぶだよ。てをとおくにおいて、あしをいっぱいひろげてとぶといいよ。」とおしえてくれたので、ゆうきをだしてとんだ。ぼくのあしが、おとうさんのあたまにあたって、おとうさんが「イタ!」といった。ぼくのおしりがおとうさんのこしにおちたときも、おとうさんは「イタ!」といった。なんだかおもしろくて、わらってしまった。なんかいもとんで、じょうずになってきたので、つぎはぼくがとびばこになりたくなった。ぼくもたたみのうえで、ちいさいダンゴムシみたいに、まるくなった。ぼくのうえを、おとうさんがとんだら、おもくて、ぼくは「ウッ!」といった。また、おもしろくて、またわらった。いっぱいあせをかいたけど、たのしかった。
堀江 千春(28) 東京都
父の存在がコンプレックスだった。友達のお父さんみたいにスーツを着て会社に行くわけではなく、私が高校生の時には務めていた工務店も辞めてしまった。父の職業を聞かれるたび、なんとなくごまかしていた。「お父さん、いないんです。」そう答えられたらどんなに楽か、なんて考えたりしたこともあった。
学校を卒業した私は、上京して一人暮らしを始める。それは、父の存在から離れたいという気持ちもあったのかもしれない。父以上に稼いで、貧しい自分を打ち消した。それでもときどき父の話題になることもあり、そのたびに私は苦しいような、気まずいような気持になって、相変わらずごまかしていた。
そんな私も結婚することになった。実家へのあいさつで、恋人に貧しい実家を、頼りない父を見せることになる。本当に嫌で、恋人に事前に何度も「汚いから、貧しいから」と言って出かけたのだった。父親は、やっぱり頼りなくて、恥ずかしかったけれど、優しい恋人は受け入れてくれた。
恋人は先に帰って、私は実家で結婚式で使おうと、子供の頃のアルバムを引っ張り出してみた。赤ちゃんの頃の写真を見るのは、ほとんど初めてだった。若い両親が私を抱いて笑っている。「その帽子はお父さんが編んだのよ」と横から母が一枚の写真を指差す。赤い毛糸の帽子をかぶった、小さな私。何だか、涙が出て止まらなかった。
結婚式当日、『両親への手紙』は恥ずかしくてやらなかったけど、父からまさかの『娘への手紙』。生まれてきてくれてうれしかったこと、人生にたくさんの春が訪れるようにこの名前を付けたこと、そしてこれまでも、これからも離れていても応援しているということ。恥ずかしく思う必要なんてなかったんだ。おとうさんごめんね。おとうさん、ありがとう。
西澤 傑(25) 東京都
私には父親が二人いる。二人いると言っても、一人にはほとんど会った事がい。それは生まれてすぐに離婚してしまったからである。今はもう一人の親のおかげで、大きくなった。今の父親、という言い方は、嫌いだ。父親は父親、オトンである。オトンは、髪の毛がバカボンドの宮本武蔵のような髪型をしている。このような髪型をしているのも、美容師という職業柄であろう。オトンからは黒人音楽を教わり、そして生き方を教わった。数年前は「オトンのアホばけカス!」や「いつかチクワにしたんぞ!」等と、反抗もしていたが、子供がいてもおかしくないような年齢に自分がなると、改めてオトンの大きさを感じた。「好きな女とはいえ、違う男の子供に、オレは愛情を持って育てられるだろうか」と。この言葉は直接、オトンには言えない。言うと調子にのり、「そんな言葉よりプレミアムモルツでも買ってこんかーい!」となったあげく、「オレがお前の年齢の時は、すでに働いていた!」と、酔った勢いで苦労自慢されるだろう。今では私も大人なので、オトンなりの照れ隠しかな、とその話を五分は聞いていられるようになったが。
本当の父親、このような言い方も嫌いなのだ。だから、お父さんとしよう。オトンは髪の毛がフサフサなのだが、私は若くして M字ハゲである。それをごまかすのも嫌なので坊主頭にすると「鉄腕アトム!」とあだ名がつくほど、剃り込みが入っている。それはお父さんのせいである。お父さんは写真でしか見た事がない。正確には見ているのだが、小さすぎてほとんど覚えてはいない。このお父さんは、でこっぱちである。母親の話によると、お父さんのお父さんは、ハゲていたそうだ。私は間違いなくその遺伝子を受け継いでいる事になる。くそう!と思う事もあったが、今ではこの頭が、お父さんとの共通点である。なんだか、おでこが愛おしいではないか。すりすり、である。
私には父親が二人いる。昔は「なんでやねん。なんで普通じゃないねん」と嘆いていた夜もあった。だが、今はこう言える。私にはお父さんとオトンがいる。二人のおかげで私はこうしている。二人もいるのだ。どうだ、うらやましいだろう? そしてありがとう、と言葉通り言える毎日である。
中村 真理子(27) 大阪府
青天霹靂だった。
その日は「聖バレンタインデー」だった。昨日まで、幸福な家族であったのに、私が高三受験時、父は「駆け落ち」して家を出た。
無責任な父が許せなかった。
それが原因ではないだろうか、それ以来、私はずっと「鬱」が続いている。未だ治癒ならず。
その父は「営業マン」であった。営業マンであっただけに「靴は顔である」と言い、毎日自分で靴をせっせと磨いていた。 すり減った靴底。泥だらけになった靴は、父の勲章であるかのように思った。そんな真面目で一生懸命な父を、私たち家族は心から尊敬し、誇ってもいた。帰宅すれば玄関には靴をちゃーんと並びそろえて自分の心もそろえていたのだ。古き良き日本の教えを靴をそろえることで、私たち子どもに伝えていたように思う。 父の靴に、たくした思い。父の背を見て私と弟は育ってきたのだ。真面目で誠実で子煩悩で・・・。
私は父が大好きだった。お父さんっ子であった。信頼もしていた。でも、現実は違っていた!?母、障害がある弟、そして、私の家族を捨てた。そして父の本能のおもむくままに、好きな女性の元へと去っていった・・・。
(父に何があった!?何故?)
ショックだった。でも、その時点で私は父をあざ笑った。
(な~んや、しょうもない奴。たんなるおっさんやったんや!)
自分自身に言い聞かせることで少しは楽になったように感じた。異性問題は、人間本来の理性が失われると言われている。どうやら、父もそうであったようだ。父も単なる男にすぎなかったのだ。この父の行動は、我が国の「法」では触れないことだ。しかし、人間として、父親として許されるべき行為であったのか・・・。道徳モラルに反する行為であったはずと私は、ずっと父を責め続けてきた。
あれから、もう10年。いろいろあった。わたしは相変わらず体調すぐれず、せっかく入学した大学も途中退学してしまった。祖母も、随分年いったが、家事頑張ってくれている。母は毎日、職場でいじめにあいながらも、稼ぎのため勤めにでている。弟も社会人となり「介護福祉士」として社会のお役に立つほど成長した。成人となり年月が経つごとに、あの時の怒り、悔しさは徐々に緩和されている。ときに父に会ってみたいと思う。父はどんな声で私を呼んでくれてたっけ。もう1度、父の声聞きたい。顔見たいと思う。
お父さんへ?
お元気ですか?お父さんは今、幸福なのでしょうか?お父さんが家を出てから、今年でもう10年になるね。私はもう27歳になったよ。あの日は、ちょうど「バレンタインデー」だったね。寒い日だった・・・。私は、いつものように、お父さんのためにチョコレートを用意しておいたんだよ・・・。とびっきりの笑顔見たかったな。あの時渡せなかったチョコ、又、プレゼントしたいなあ。
毎年、今もこの時期になると普通の女の子が恋人にときめく心で選ぶように、私も真剣にチョコ探しに夢中になっているんだよ・・・。
お母さん、ゆう、私にとっても、この日だけはとても複雑な気持ちの「バレンタインデー」を迎えています。
あるひ、私は見たよ。お母さんが、お父さんの靴を時々は取り出して磨いては「風」を入れている。お父さんが「シンデレラ」になっている。そんな気持ちで、お母さんは、お父さんのことを今でも愛しているよ。心の奥底に、思い出をしまっているよ。そして、ゆうは、お父さんの「靴は顔である」、その思いをしっかり受け継いでいるよ。靴はきちんとそろえて、心もそろえている。あの幼子の彼とは違う・・・。表情、優しく、気配りもでき、心豊かな青年に成長したように思う。彼も、もう24歳。お父さんの生きざまをみんなが世襲しているよ。
「お父さん、お父さん、お父さん・・・」
心の中でいつもこだましています。一度は声に出して叫びたい。「お父~さ~ん!」
私はここにいます。会いたい!!
あなたの娘より
※受賞者の年齢は作品応募時の年齢です