お父さんへの作文コンクール入選結果2023
「お父さんへの作文コンクール」
入賞作品発表!
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藤本 千尋(6) 愛知県
ととは、たまにかかになります。スカートははきません。じょりじょりのひげもきえません。でも、ごはんをつくってくれたり、おせんたくをしたり、ちょっとへたくそだけど、ゼッケンとかをつけてくれようとします。
かかはたいいんしてからも、すぐつかれちゃいます。だから、かかがたいへんなときは、ととがかかにへんしんします。小がっこうのはじめてのさんかん日も、ととがきました。みんなはおかあさんだったけど、ととはいつもこうえんでみんなとあそんでいるので、
「あ、ちいちゃんのおとうさんだ!」
とだいにんきでした。みんなによばれて、ととはたのしそうでした。わたしは、いつもいっぱいあそんでくれるととがだいすきなので、うれしいきもちになりました。
おおきくなったら、ととといっしょにおふろにはいれません。じゅぎょうがいっぱいになったら、いっしょにあそぶじかんがへるかもしれません。おおきくなるのはうれしいけれど、それはちょっと、さみしいです。わたしがおとなになったら、ととはおじさんか、おじいちゃんです。でも、わたしがこどもをうんだら、わたしとあそんでくれたみたいに、いっぱいあそんでくれるとおもいます。いつまでも、じまんのととでいてほしいから、ずっとげんきでいてくれるように、まいにちニコニコたのしいはなしをしてあげます。そうしたら、まいにちたのしみで、げんきがでるでしょ。とと、ずっとだいすきだよ。
小松﨑 有美(38) 埼玉県
バカという言葉が一番嫌いな父。そんな私もまたその言葉に悩まされた。三年生なのにひらがなが読めず、九九が言えない。そんな状況からついたあだ名はバカボン。バカ殿なんて言われたこともあったような。いま思うと発達障害だったのかもしれない。読み、書き、計算。どれをとっても人より遅く、クラスから置いてけぼりを食らった。
だけど父は私に人一倍やさしかった。漢字が書けなくても『ににんがに』になっても、絶対に責めなかった。それどころか優しく教えてくれた。だから父の前では唯一『バカ』を忘れられた。私はこのままでいい。いいんだ。そう信じることができた。
しかし、事件は起きた。あれは父親参観日。その日は図工で描いた父の似顔絵が展示された。どの作品も心の込もったものばかり。しかし私のを見るなり目を疑った。なぜか似顔絵に『バカ』と書いてある。こんなことを一体誰が。私は怒りで震え、悔しさでさらに震えた。すぐに先生がやって来て「こんなことをする人は誰ですか」という犯人探しが始まった。私は『バカ』と書かれた悔しさより、それを父が見てしまう焦りの方が強かった。
来ないで、父さん。
止まって、時間。
泣くな、わたし。
消えろ、落書き。
先生は私だけを呼び出し、この絵を取り外してもいいかと尋ねた。描き直す時間はもうない。私は絵を見つめながら、しばらく考えた。
父は似顔絵が展示されるのを知っている。だから……。
父は私が居残りをして描いていたことも知っている。だから……。
何より父はこの日を楽しみにしていた。だから……。
「そのまま飾って下さい」
先生は目を丸くして「本当に」という表情を見せた。それも無理はない。『バカ』の字は画用紙の中央に書かれ、修正はおろか、消すことすらできない。それでも私の絵だけなかったら父はきっと悲しむと思った。
「どんな絵を描いたかじゃないよ。どんな気持ちで描いたかだよ」と言う父に、やっぱり絵を見せたかった。
父は教室に入るなり、事情を聞いた。似顔絵も見た。落書きにも気づいた。だけど何も言わず、すぐにペンを取り出して、『親』とつけ足した。たちまち『バカ』は『親バカ』に。私への中傷は、私への愛情に、書き換わった。
うちの娘にバカなんて言うなよ。かわいい娘だぞ。バカなんて許さないぞ。
『親バカ』の字に込められた父の叫びが聞こえた気がした。
あれから何十年も経つが帰省のたびに父は「孫も娘もかわいいなあ」と目尻を下げる。そんな父を見て、親の愛に勝るものはないと感じる。長年いじめに遭ってきたなら、尚更。
今なら言える気がする。
私を守り、愛してくれた父に。
「お父さん。私も『バカ』は嫌いだよ。こんなひどい言葉は大嫌い。でもね、親バカなお父さんは大好きだよ!」
野入 桃子(9) 福岡県
お父さんの額には傷がある。お父さんが子どもの時に、けんじゅうでうたれた傷なのだそうだ。もう五十年以上も前の話らしい。
「うそ。絶対うそだよ。」
そのことを友達に話したら、私はうそつきになってしまった。
「うそじゃないよ!お父さんに聞いたもん。」
言い合いになっても一歩も引かなかった。だって私はうそつきじゃないし、これはお父さんから聞いた話だったからうその訳がない。
仕事から帰ってきたお父さんに、友達との出来事を話した。
「えっ?話したの?これは水ぼうそうのあとだよ。」
私はショックだった。本当だと思っていた話がうそだったなんて。うそだってことが本当はうそみたい。うそと本当で、なんだか頭がクラクラしてきた。私は思わず泣き出してしまった。私がうそをつくつもりはなくても、結果的に友達にうそをついてしまったことになったのがくやしかったからだ。
「ごめん!じょうだんだったんだよ!」
お父さんは私に何度もあやまった。
うそって何だろう。私は考えた。うそとじょうだんは何がちがうのだろう。国語辞典で調べてみた。うそは、真実ではないことを本当のように言うこと。じょうだんは、遊びで言う言葉、ふざけた内容の話。なるほど、たしかにお父さんの話はふざけている。
自分が本当だと思って話したことが、本当はうそだった場合、私はうそをついたことになるのだろうか。難しくてわからなくなってきたので、お母さんと話し合ってみた。世の中には、いろんな話や様々な情報がある。それらを見たり聞いたりして、それが本当に信じていいことなのか、そうでないのかを考えて決めるのは自分自身だ。その決断を間違えてしまわないように、様々なことを勉強してたくさんの経験をすることが大切なのだとわかった。
次の日の朝、お父さんが仕事に行く時「おみやげに桃ちゃんの好きなおかしを買って帰るね」と言って出かけて行った。腹が立っていたので私は返事をしなかった。お父さんは、きっと本当におかしを買って帰ってくるだろう。けれどもしばらくは、お父さんの言うことは信じないと私は心に決めている。
お父さんはくだらないうそばかりついて、いつも私をからかう。ふざけてばかりのお父さんが、真面目なお母さんと結婚できたのは、きせきだと思う。少しいじわるを言いたくなって、そうお父さんに伝えたのに、お父さんはうれしそうに笑って言った。
「桃ちゃんが産まれて来てくれたことが、パパの人生で一番のきせきだよ。」
お父さんはじょうだんばかり言うけれど、この言葉は信じてあげよう。
國吉 桃美(5) 青森県
「パパいってらっしゃーい」
パパがたたかいにむかった。きょうもわたしのパパはてきとたたかう。てきは、とても強い。いま、ちきゅうのみんなもたたかっているてきだ。
わたしのパパは、しょうにかのおいしゃさん。まいにちびょうきやけがの子どもたちのちりょうをしている。いま、一ばんのきょうてきは、コロナウイルス。
パパは、どんなにたいへんでも、くじけない。うちゅうひこうしみたいなぼうごふくにへんしんしてかんぜんぼうびで立ちむかう。なつのあつい日は、あせがいっぱいでてたいへんっていってた。
パパは、じぶんがコロナウイルスにかんせんしても、こういしょうでくるしくても、がんばりつづける。まるで、わたしの大すきなプリキュアみたい。
プリキュアは、へいわをまもるみんなのヒーロー。どんなにてきが強くても、あきらめない。
パパは、いつもおしごとでいそがしいけどおうちに帰ってくると、わたしとあそんでくれる。プリキュアのとくいわざをいっしょにしてくれる。うたはちょっぴりおんちだけど、おどりをノリノリでおどるしおもしろい。
パパとあそんでいるときに、びょういんからでんわがきてきゅうにおしごとにいくときもある。ほんとうはもっといっしょにあそびたかったのに。
でも、プリキュアもわるいてきがきたら、どんなときでもとんでいく。パパはプリキュアとおんなじなんだね。みんなのためにがんばっているんだね。わたしはパパにいっぱいあまえたかったけど、がまんしたよ。
わたしは、プリキュアみたいなパパが大すき。たくさんの人をすくうために、いっしょうけんめいなプリキュアが大すき。
パパ、わたしね、七夕のねがいごと、たんざくにかいたよ。
「プリキュアになりたい。」って。
大平 真由美(42) 東京都
私の父は見た目が怖い。目つきも鋭く、声も低くて大きい。サングラスなんてかけてしまうと、近寄らない方が良さそうな、かなり怖いおじさんになる。
そんな見た目の父だが、私にとって、小さい頃からとても優しくて、尊い存在だった。
父は無口で謙虚な性格なので、自分から自分のことを話すことはほぼなかった。しかし、
「お父さんは頭の回転も早くてスポーツも何でも出来るから、会社の人や友達とかみんなに信頼されてるんよ。」
と母が口グセのように言っていたこともあり、父は何でも出来るスーパーマンのように思えていた。
確かに、スーパーマンではないが、父にはすごく不思議なパワーがある。
私は小学生の時、算数が苦手で、授業中に先生が説明してくれる内容だけでは、全く理解出来ていなかった。しかし、家に帰って父に説明してもらうと、魔法の言葉なのかと思うくらいに、頭にすんなり算数の公式が入ってきて、なぜかスラスラ問題が解けるようになるのだ。スポーツでも器械体操でつまづいた時、コーチ経験があるのではないかと思えるほどの的確なアドバイスをくれ、全ての体力テストを合格へと導いてくれた。跳び箱の練習の時には、家で布団が幾重にも重ねられ、布団が高くて柔らかい遊具のような跳び箱に変身したので、楽しく遊んだという記憶しかない。そして今でも父のパワーは続いており、私の子供達もその恩恵を授かっている。全く出来なかったことが、父に一度教わっただけで克服出来てしまうのだ。何度も私と練習したのに乗れなかった自転車も、父とのたった一日の練習で、補助輪なしでスイスイ乗れるようになったり、怖くて大嫌いだった鉄棒も、あっという間に逆上がりまで出来るようになって「鉄棒大好き」と言わせてしまうほどになっていた。オムツ外れが進まなかった末っ子は、父とトイレに行ってどんな約束をしたのだろう、数日でパンツマンになっていた。
父の不思議パワーは、もう一つある。
本能で行動する動物や、直感で動くような小さな子供達に、父はやたらと好かれるのだ。
犬も、飼い主の私よりなぜか父にばかり懐いていたし、他の動物も不思議なことに父の方へ近付いて父から離れないのだ。
私が可愛がって大事に育てていたインコも、父が指を差し出した時だけ、毛をフワフワに逆立たせて喜びを表現し、歌っているかのように父の指に向かっておしゃべりし始めるのだ。父は、動物達にとってまるでムツゴロウさんのような存在なのだろうか。
初めて会った子供達もなぜだろう、あたかも父と今までお友達だったかのように、父に近づいて話しかけてくる。
見た目は怖そうだけど、父の人柄が動物や子供達を引きつけるのだろう。
私の子供達はもちろん、父が大好きで、父の隣に誰が座るかという理由の喧嘩が頻繁に起こる。いつも私の事が大好きで、私から離れようとしない末っ子でさえ、私の事が視界に入っているのかも分からないくらいだ。
そんな不思議パワーを持つ父を、今も私は心から尊敬している。きっとこのパワーは、父の優しさの表れなんだと思う。コロナが流行してから持病がある父と会えない日が続く中、母から箱いっぱいの果物が毎月届く。私は、まだあるから大丈夫だよと伝えようと母に電話をした。すると母は、
「お父さんがあなた達に食べさせたいんだって。コロナで手伝いにも行ってあげられないから、美味しい物を早く送ってやれってうるさいんよ。お父さん、子供達だけじゃなく、あなたにもちゃんと食べさせられるようにっていっぱい買ってたよ。」
と教えてくれた。
こんなにあって食べきれるかな。
箱いっぱいの果物を見て、あふれんばかりの愛情を感じ涙がこぼれた。
『お父さん、ありがとう。
遠く離れていてなかなか会うことが出来ないけれど、お父さんパワーのおかげで、子供たちも元気にすくすく育っているよ。
子供達と一緒に、私も沢山果物食べるね。』
果物から父の不思議パワーをもらった気分だ。
今尾 僚子(46) 千葉県
父が事故で亡くなった時、みんな心から悲しんだが、誰も「○○をさせてあげたかったね」とは言わなかった。父はマイペースで、やりたいことは何でも実現する人だったからだ。
商社に勤めていたため、海外へ単身赴任している時期が長かった。
私が高校生だったある年、12月上旬に帰国した。大きなトランクと中くらいのトランクと、小さなボストンを一つ持って。
家に入るなり、中くらいのトランクを開けると、玉手箱のようにぎっしりとお土産が入っていた。今年はきっと、クリスマスとお正月を家族と過ごすために早めに帰国したのだろうと、心が温かくなった。
久しぶりに父が毎日いて、夕食のおかずがいつもより二品多い日々が続いた。
12月24日の朝に、父が「じゃあ行ってくるね!」と言った。どこへ?
父は、一人でマレーシアのセブ島にダイビングに行き、クリスマスとお正月を含む2週間を島で迎えるのだという。そう、開かれなかった一番大きなトランクには、ウェットスーツやボンベが入っていたのだ。
白けた気持ちで手を振る私に、父はとびっきりの笑顔で振り返した。そういう人だった。
数年おきに、日本と海外が交互に勤務場所になった。赴任先は計7か国に及んだが、父はどの国に行ってもその国の言葉が話せるようになって帰ってきた。
赴任中、印象的に覚えているのは、現地の家庭教師を雇い、熱心に勉強する姿だ。仕事のあと、平日は毎日のように机に向かい、英語と現地語のちゃんぽんで家庭教師と真剣に話し込む。
その後ろ姿は、勉強は子供だけのものでも、やらされるものでもないこと、努力の先には実りがあることを教えてくれた。
同調圧力にも負けない人だった。
30年前の、長時間残業が美徳のような時代に、週2回は家族との夕食に間に合う時間に帰ってきた。同僚は毎日深夜まで仕事をしていて、早く帰っているのは父だけだと聞き、心配した私たちに父は言った。
「仕事を終える時間から逆算すると、自然と優先順位とかけていい時間が決まってくる。通勤中に段取りを考えて無駄なくやってるから、週2日位早く帰っても仕事は終わるんだよ。時間は作るものだよ。」
そんな父だから、仕事自体の評価は高かったようだが、さほど出世しなかった。
定年退職してからは、週3日は朝7時から原付でテニスに行き、英会話サークルの先生などもしていたが、その毎日にも飽きたのか、青年海外協力隊のシニア版である「海外シニアボランティア」に応募し、アフリカのチュニジアに赴任した。
日本企業誘致のための支援業務を担当するとのことで、チュニジアの外務省に毎日通勤し、時にはチュニジア側の代理人として、海外工場の設置を検討している全国の日本企業の担当者と話したり、充実した毎日を楽しく過ごした。
率直で粘り強い父は、チュニジア政府から厚い信頼を受けたようで、シニアボランティアは1期で交代するのが規則なのに、外務大臣からの強い続投要請を受けて特例でもう1期務めるのだと、父は嬉しそうに語った。
チュニジアからの“出国”で帰国して、久しぶりに家族揃って夕食を食べた。
日本にいる間は、仕事に差し支えない金曜と土曜だけ晩酌をするのが父の習慣で、その横でおつまみを横取りしながら他愛のない話をするのが私の習慣だった。
テレビでは藤原道長の特集をしていて、かの有名な「この世をば我が世とぞ思う望月の 欠けたることもなしと思えば」という和歌の紹介をしていた。
画面いっぱいの、煌々と輝く満月。
父が言った。「パパも今まさに満月みたいな気持ちなんだよね。やりがいのある仕事があり、信頼できる仲間がいて、愛する家族がいる。いい人生だったと思う。」
私は胸を突かれて、わざと横目で言った。「天下人になぞらえるとは、ちょっとおこがましすぎない?」父は大笑いして、私の頭を撫でた。
その1週間後、父は事故にあった。駅の階段を駆け下りて、足を滑らせたのだという。初孫の出産予定日だったから、生まれたという連絡を楽しみに、家路を急ぎ過ぎたのかもしれない。
電話を受けて、現実味のない中で向かった病院で、父の意識は戻らなかった。父の手は、乾いていてごつごつと硬くて、何も変わらないのに、もう私の頭を撫でてはくれない。
私は、あれは本人すら気づいていない遺言だったのかもしれない、と思った。
私たち家族は、父が不在の状態に慣れていたから、日々のルーティンが変わったりはしなかった。ただ思った、いつか帰ってくる不在と、もう帰ってこない不在とでは、こんなにも感じ方が違うのかと。
それでも父の満月は、亡くなるには早すぎたと嘆く私たちを慰めてくれた。
それから10年余が経った。弟や私の子供たちは誰も「おじいちゃん」と会ったことはないが、「きっとおじいちゃんなら○○って言うよね」と話す。
弟の仕事への取組み方、物事への捉え方に、確かに父を感じる。
そして今夜も光る満月が、子供を寝かしつけた後に勉強する私を見守っている。
栗原 佑奈(5) 神奈川県
わたしのおとうさんはかっこよくて、おもしろいです。おとうさんのすきなところは、ふさふさのあたまのてっぺんです。いつも、だっこやおんぶやかたぐるまをしてくれるときにみています。わたしはおとうさんのつむじをさわるのがすきです。つむじはざらざらしていてきもちがいいです。
おとうさんは、まいにちうでたてふせをしています。しごとでつかれているひでも、まいにちつづけてがんばっています。おとうさんに、どうしてうでたてふせをしているのかきいてみたら、わたしがしょうがくせいになってもだっこできるようにうでをきたえているのだそうです。
うれしいな。ありがとう。わたしが90さいになってもだっこしてください。いつもだっこしてくれてありがとう。おとうさんのだっことつむじがだいすきです。