2025年入賞作品
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「今夜も、洗濯機の前で」
安田彩乃(12)
山口県
安田彩乃(12) 山口県
今夜も我が家の洗濯機はフル回転で動いている。中をのぞくと、父のワイシャツでいっぱいだ。私の父は汗っかきで、一日に何度もシャツを着替える。父のシャツだけで洗濯機が満杯になってしまうほどだ。
「今日もいっぱい働いたんだね。」
私は父に話しかけながら、洗濯機の前に椅子を二つ用意する。
「今年の夏は特別暑いからなあ。」
と言いながら、父がよいしょ、と椅子に座る。リズムよく回る水の音を聞きながら、洗濯機の前でその日の出来事を話し合うのが、私たちの日課だ。
父は大柄で、体格がいい。でも、ぽよんぽよんのおなかを見ると、私は父の健康がちょっぴり心配になる。
「お父さん、少しやせたらいいのに。やせたら汗っかきも治って、洗濯物も減らせるよ。」
と私が言うと、
「このおなかには、生徒の夢と希望がつまっているんだよ。」
と父が冗談を言う。そんなものかなあ、と私はぼんやり考えながら、父の働く姿を想像してみる。
父は高校の先生だ。授業中は思わず指導に熱が入って、体も熱くなるのだそうだ。授業が一時間終わるごとにシャツを着替えないと、体が冷えて風邪をひいてしまうから、というのが、父の洗濯物が多い理由だった。父のシャツは、多い日だと七枚、少ない日でも四枚はある。普段の父はのんびりと、穏やかにすごしているから、学校でそんなに熱血指導をしているなんて、私にはやっぱり想像できなかった。
ある日、父が授業をしている写真が学校のブログに載った。私は、その写真を見て納得した。父は、座っている生徒の目線と同じになるように、中腰になって熱心に教えていたのだ。まるでスクワットをしているみたいに。これなら、汗だくになるはずだ。私はその日、いつものように洗濯機を眺めながら、
「お父さんも、椅子に座って教えたらいいのに。」
と伝えた。父は、
「生徒の近くにすぐに駆けつけたいから、椅子がない方が動きやすいんだよ。それに、シャツを着替えなかったら、彩ちゃんとここでお話する楽しみもなくなるからね。」
と言って笑った。私は照れくさくて、うん、とうなずいただけだけれど、内心とても嬉しかった。二人で並んで洗濯機を眺めながら、この日は洗濯の時間がもっと長く続いてほしいと思った。
父は時々、
「いつまでこうして、お父さんとお話してくれるかなあ。」
とつぶやく。私が思春期に入って、この時間がなくなるのを心配しているようだ。私が
「大丈夫だよ。ずっと続くよ。」
と言うと、父は本当に嬉しそうに笑う。父の笑顔を見ると、自分の気持ちを素直に伝えるのがちょっぴり恥ずかしくなる。だけど今日は、照れずにしっかり、父への気持ちを伝えたい。
お父さん、心配しないで。洗濯機のシャツは、お父さんが頑張った証。このシャツが、私にお父さんの強さと優しさを教えてくれているんだよ。今日も明日も、これからもずっと、洗濯機の前でおしゃべりしようね。

「ぼくとパパ」
天野颯人(4)
神奈川県
天野颯人(4) 神奈川県
「きょうはごじにおむかえだよ。」
パパはいつもぼくをようちえんまでむかえにくる。くるまのなかでは、きょうなにをしてあそんだか、だれとあそんだか、きゅうしょくはぜんぶたべたか、とたくさんきいてくる。
パパはぼくのことなんでもしりたいんだ。
かえったらいっしょにおふろにはいる。おふろではブロックでいろいろなくるまをつくる。ぼくのくるまのほうがかっこいい。パパのくるまはすぐしずんだり、ぶつかったりするから、ぼくのくるまがレスキューしにいく。
「たいへんだ!たすけて!」とパパがきゅうじょようせいをするから、ぼくはすぐにげんばへむかう。ぼくがたすけるとパパはあんしんするんだ。
ねるまえには、ほんをよんでもらう。パパのこえはおおきいから、だんだんねむくなくなってくる。いっしょにおおきなこえでわらう。よみおわったらでんきをけして、きょううれしかったことやいやだったことのおはなしをする。ぼくはパパのはなしもきいてあげる。
きがついたらパパはもうねてる。ぼくはきょうもたくさんパパとあそんであげた。
パパ、うれしそうだったな。
ぼくもうれしいよ。

「父はスーパーヒーロー鳥谷敬もどき」
田渕聖依(17)
兵庫県
田渕聖依(17) 兵庫県
我が家は核家族。
物心がつく頃、我が家は家族形態が他の家族と違うことに気が付いた。
私は、年の離れた兄が大学に通うため、学生寮で生活をしており、幼い頃から母と二人暮らしだった。育っていく過程でそれが当たり前だったので違和感はなく、母が父親役も母親役もこなすバイタリティーの持ち主だったこともあるからだろう。当時、母は私たち兄妹を育てるため資格取得に学校に通いながら仕事をしていた。そのため、母の友人や恩師の先生、私のベビーシッターさんなど日々、母に変わって私の育児に携わってくれたので核家族と思えないような人数の出入りが毎日、自宅では行われており、父がいないことに気が付いたのは小学校に入学してからだった。それは、学校で父の日に感謝のメッセージカードを作る授業があった時のことだ。父のいない児童には、別の家族に書くよう担任の先生が指示を出した。私以外に数名、父親がいない同級生がいてコソコソと隠れるようにカードに記入していた。私は、父の存在について感じたことが無かったので誰に何を書けばいいのか戸惑ってしまい、さも父がいるかのようにメッセージカードを書いた。その後、担任の先生は母に連絡をし、いない父親のことを書いて他の友達にバカにされたり、いじめられたりでもしたら…と私に諭してくれと電話を切ったと言う。しかし、母は先生にこう伝えたそうだ。『父親のいないこどもなんていないでしょう。ここにいないだけで娘の心に父親と言う想いがあるならそれでいいじゃないですか。なぜ、否定する必要があるのですか?』と問い直したそうだ。それから私を呼んで、開き直ったかのように『ごめん。こどもに複雑な思いをさせるのは親の責任だけど、反面教師に育ってください』と責任転嫁ともとれる言葉を吐いて、大好きな阪神タイガースの試合を見ながらヒットを打った大ファンの鳥谷敬選手を指さしながら『父親のことで何か思う日は、鳥谷選手を父親もどきだと思っていたらなんとかなる』と今考えると母もかなり無茶を言って、鳥谷選手も大迷惑な話だ。それでもテレビやニュースで放送されると私も一緒に応援し、気がつけば鳥谷選手を勝手に父親もどきと化した我が家で、試合の活躍に胸を躍らせた。それから数年経過し、父親もどきの鳥谷選手も18年の選手生活を終えられた。母の言った無茶ぶりから始まった鳥谷選手の父親もどきだったが、長きに渡る選手生活は私に勇気を与えてもらえた。この不思議な家庭環境でも寂しいと思うことはなく横道逸れず、将来のビジョンをもって努力できたのは、父親もどきの鳥谷選手がひたむきに謙虚にそして懸命に戦う姿に心を打たれ、迷いなく自分と向き合う強さを教えてくれたことだ。私は、来年18歳となり成人する。そして、大人になる階段で自らのルーツも知ることになるだろう。その時、父親を知って複雑な思いに駆られるのだろうか。いや、そうではない。私は、神様に選ばれて生まれてきたことを感謝し、改めて父と向き合うことになるだろう。父はどのような人だったのか、父は何を想い命の最終章を終えたのか。
様々な家族の背景がある中で、我が家の無茶ぶり子育て論は、私のアイデンティティを確立させた。私は私らしくあるために、今まで父親もどきとして支えてくれた鳥谷選手に負けないよう社会に貢献し、となり人へ愛を繋ぐことができる人となりたい。
見ていてね、お父さん。

「私と父と『電車の旅』」
堀晴日(29)
兵庫県
堀晴日(29) 兵庫県
北海道、新潟、長野、富山、岐阜、東京、千葉、群馬、静岡、愛知、石川、福井、三重、京都、奈良、滋賀、大阪、和歌山、兵庫、岡山、鳥取、島根、広島、山口、徳島、香川、福岡、長崎、宮崎、鹿児島、沖縄。
仕事の休憩時間、同僚に「このアプリ知ってる?」と教えてもらったのは、日本国内で自分が訪れたことのある都道府県を地図上に表せるアプリ。訪れた都道府県が多いほど得点が高くなる。おもしろ半分でやってみると、案外いろいろな場所を訪れたことがあるのだと気がついた。ほとんどが、幼い頃に父と行った場所だ。遊園地などのレジャー旅行、温泉旅行、家族旅行で連れて行ってもらった場所も多い。しかし、なかでも特に多いのは、私と父の「電車の旅」で訪れた場所である。
父は鉄道オタクだ。あちらで臨時列車が走るといえば乗りに行き、こちらでラストランがあるといえば写真を撮りに行く。家にはあちこちに鉄道会社のオークション等で手に入れた列車の行き先表示看板が飾られ、クローゼットには鉄道の吊り輪がぶらさがっている。そんな父に、「電車の旅に行くぞ!」と手を引かれ、私は全国津々浦々、いろいろな場所に連れて行ってもらった。
「電車の旅」の始まりは、駅員さんによる「十時打ち」である。父と一緒に地元の駅の窓口へ行き、十時ちょうどに希望の列車の席を予約してもらうのだ。予約できるかどうかは、タイミングと運しだい。このときの父の真剣な表情と、駅員さんの素早く正確な手さばきをよく覚えている。無事に予約できたときの嬉しさに少し早足になる帰り道も、帰り道にパン屋に寄って買ってもらったチョコレートのパンも、私はとても好きだった。
「電車の旅」は時に過酷である。東京から青春18切符を使って在来線で兵庫県の自宅まで帰った時は、本当に家につくのかと心配になった。高校受験を終えたその足で夜行列車に乗り込んだ時には、列車の中で自己採点をした。ラストランの列車を見送ろうとする人でごった返すホームで、はぐれないように必死で父の背中を追いかけた。春の能登半島で、強烈に花粉が飛ぶなか山間の駅に降り立ち、鼻水とくしゃみが止まらなくなった。酷暑の夏には浜松の車両基地に入場するための長い列に並んで、そのあとうなぎを食べさせてもらったら、暑さのせいかうなぎのせいか、鼻血が止まらなくなった。過酷なこともあったけれど、今ではすべて良い思い出である。
「電車の旅」では、特別な体験ができた。例えば、東京まで夜行バスで行くことがあった。夜ごはんを食べ、お風呂に入ってから、いつもならパジャマに着替えるところを普段着に着替えるのも特別だったし、夜遅くなってから家を出て電車に乗り、深夜のバスに乗り込むのも特別な体験だった。座席は広くないけれど、隣に座る父の肩にもたれて寝れば、次の朝には新宿駅についていた。初めて降り立つ、早朝の新宿駅。喫煙所にいる大勢の人に驚き、道に落ちているポイ捨てのゴミの量にも驚き、朝から営業しているラーメン屋で朝ごはんにラーメンを食べた。そのときのラーメンがびっくりするほど熱くて、美味しかったのを覚えている。
それから、寝台列車に乗ったのも特別だった。列車の中のベッドは、少し狭くて固くて、寝転ぶと路線の上を走る車輪から振動が直に伝わってきたこと、冬だったのに列車の中は半袖シャツでも汗ばむほどに暑かったこと、父が眠らずにずっと車窓を眺めていたこと、列車の中で食べた豪華な朝ご飯。どれもこれも、あのときあの列車でしか体験できなかった特別な時間だ。
「電車の旅」では、一日中列車に乗っていることも少なくない。父は、「次の駅では二〇分停車するから、その間に写真を撮りに行くぞ!」などと意気込んでいたりするが、私は父のように特別に鉄道に興味があったわけでもなかったので、手持ち無沙汰になることがしばしばあった。リュックの中に分厚い小説をしのばせておいて読んだり、テストの勉強をしたり、いろいろに時間をつぶした。そしてたまには、父と一緒に鉄道の写真を撮ることもあった。誕生日プレゼントにもらったデジタルカメラを片手に、父の後ろをついていろいろなアングルで写真を撮るのが楽しかった。
「電車の旅」の楽しみは、降り立つ駅や列車の走る地域によってぜんぜん違う風景を見たり、その土地の文化にふれたりすることだ。普段は海のない街に住んでいたので、海辺の駅ではホームにまで海の香りがして嬉しかったし、そういう駅の近くにあった、ごく普通のスーパーで買ったお刺身がびっくりするほど美味しかったのもいい思い出だ。菜の花畑に桜のトンネル、紅葉の急流に雪化粧の山々。車窓の景色は四季折々に美しい。群馬の高崎駅の駅ビルでは、お土産屋さんにダルマが大量に並んでいたのに驚いた。新潟の糸魚川では、ひすいのキーホルダーを買ってもらって嬉しかったのを覚えている。島根の出雲では、出雲大社の隣の博物館に連れて行ってもらい、展示されていた大量の銅剣と銅鐸に魅了された。他にも、和歌山の「御坊」という駅では、なぜかごぼうの匂いがしたような気がしたこと、山口の萩で夏みかんのお菓子を食べたこと、北海道の小樽で作ったオルゴール、札幌の居酒屋で食べたホッケがものすごい大きさだったこと…思い出せばきりがないほど、「電車の旅」は楽しい思い出でいっぱいだ。
私と父の「電車の旅」での経験は、大人になった私にいろいろな影響を与えている。今でも私は旅をすることが大好きだ。就職して一人暮らしをするようになってからも、一人で車を走らせて旅行をしたり、友達とあちこちに旅行をしたりした。時間さえもっとあれば、行きたいところがたくさんある。「電車の旅」が旅の楽しさを教えてくれたのだ。
好きなことを全力でする、ということも、父との「電車の旅」が教えてくれたことだ。島根への「電車の旅」にて銅剣と銅鐸に魅了されて以降、私は考古学に取り憑かれてしまった。各地の遺跡や古墳を訪ねては写真を撮り、家には埴輪や土偶、土器などの考古学グッズがあふれている。好きなことは、思いっきり全力でしていいのだと父の背中が教えてくれた。自分の好きなことを全力ですることは、とても素晴らしいことなのだと教えてくれた。私が好きなことを全力で楽しむのは、父の影響が大きい。
歴史の教員となった今、授業で私が埴輪や銅鐸など、自分の好きなことについて話すとき、どうやら尋常ではない様子らしく、生徒たちにはよく驚かれる。ある生徒が、「埴輪の話をしているときの先生はキラキラしていて、そんなに好きなことがあるのがうらやましいです」と言ってくれた。好きなことをしている自分が、生徒にキラキラして見えているのなら、それは父のおかげだ。私が好きなことを堂々と胸を張ってできるのは、父のおかげだ。そして私は、好きなことをしているときの自分がとても好きなのだ。あのころの「電車の旅」の思い出は、今の私を構成するかけがえのない経験だった。
大人になって独り立ちして、父と「電車の旅」に行くことはなくなってしまった。私も仕事を持ち、家庭を持ち、「電車の旅に行くぞ!」と誘われることはなくなった。そして今年の五月、息子が生まれた。父にとっては、初孫である。自分も親になって改めて、父との「電車の旅」がどれほど大切な時間だったかを思い知った。だから今度は、私から誘おうと思う。息子がもう少し大きくなったら、私と、息子と、父とで、「電車の旅に行こう!」と誘おうと思うのだ。今度は私が息子の手をひいて、父の背中を追いかける。そうして、あのときの「ありがとう」を伝えたいと思うのだ。

「サクラサク」
野入桃子(11)
福岡県
野入桃子(11) 福岡県
桜が咲くと、私は家族でお花見に行く。今日の弁当は私が作る。三角に握ったつもりのおにぎりはいびつな形で、母から作り方を伝授された卵焼きはちょっと焦がしてしまった。
「うまい!桃が作る弁当は最高だな!」
失敗にも近い弁当を頬張り、大げさに喜ぶ父。
「ほら、桜も食べたいって言っているぞ!」
見ればおにぎりに、散り降る桜の花びらが何枚もくっついていた。父と笑う。そんなお花見が済んだ頃だった。父の病気が見つかった。
「お父さん、ガンだった。夏に手術する。でも、きっと大丈夫だから心配すんな。」
雷に撃たれたみたいな衝撃だった。まさか父がガンなんて。私は不安でたまらなくなった。
夏の暑い日、父の手術の日がやって来た。
「それじゃあ行ってくる。」
今から手術室に向かうのに、散歩にでも行くかのように父がほほ笑む。だから私も、一生懸命に父を真似た。本当は不安で、今にも泣き出したい気持ちを精一杯隠して…。
普段の父は、くだらない嘘ばかりついて
「冗談だよ」と、いつも私をからかう。そんな父を、正直うっとおしく思っていた。
『きっと大丈夫だから心配するな』
そう言った父の言葉が頭の中でこだまする。ねぇ、大丈夫って言ったこと、本当だよね?この言葉は?じゃないよね?たまらなくなって、我慢していた涙がとうとうあふれた。
夏が終わって、秋が来て、冬になった。それでも父の治療は続いていた。また春が来て桜が咲く頃、ようやく父は退院した。
「今年の桜は一段とキレイだな!」
去年より少しやせた父と、散歩がてらゆっくりと歩きながら桜を愛でる。同じ場所、同じ木の桜のはずなのにキラキラと輝いて、より一層美しい。生きていることが当たり前じゃないと知ったから、見る景色が今までと違って見えるのかもしれない。ほんのささいな何気ない日常が、尊くて愛おしい。この世界は、こんなにも美しかったのだ。
消化管出血、心筋こう塞、脳腫よう。父はこれまでに何度も死にかけた。その度に看護師でもある母がサポートして助けてきた。
「ママには一生頭があがらないな。」
そう言って笑う父に、舞い散る桜が降り注ぐ。
「本当それ。だまされた。事故物件だわ。」
母が笑い返す。私は会話の意味が分からない。けれど、二人の涙の意味ならわかる。かけがえのない人が側にいてくれる。私達は幸せだ。
これからも困難な出来事が訪れることがあるだろう。幸せなことだけじゃなくて、苦しいことにも向き合い、それを乗り越えようとすることが『生きてゆく』ってことなのかな。
ふと周りを見渡すと、たくさんの人達がお花見を楽しんでいた。娘を肩車するお父さん。息子とキャッチボールをするお父さん。どのお父さんも満面の笑みで嬉しそうだ。
来年も、再来年も、そのまた先も。満開の桜の木の下で笑う父を見たい。その時も、きっと父は、こりずにくだらない嘘をついては「冗談だよ」と、ほほ笑むのだろう。想像しただけでうっとおしい。それなのに思わず笑ってしまった。
見上げた空は澄み渡り暗雲はない。
「サクラサク!」
奇跡を呼ぶ魔法の呪文のように私は唱える。キラキラと踊り舞う桜の花びらが、私達家族を優しく包んでくれた。

「お父さんへ」
髙橋明日香(27)
神奈川県
髙橋明日香(27) 神奈川県
私が産まれたのは9月21日9時9分。私を見た母は「つーさん(父のあだ名)に似てる…。」と思ったらしい。長めの目幅に、薄めの唇で大き目の口。羊水でぬれてカールがかかった天然パーマ。それは父のチャームポイントで、私はすでにそれらをしっかりと受け継いで産まれてきたらしい。学生の時は、なんとなくは男の人に似てることに対して嫌悪感があったし、嬉しくもなんともないなと思っていた。
私の父は、私が小さい頃から単身赴任で岩手の家にはあまりいなかった。月2回の土日休みにしか帰ってこなかったし、私は年中反抗期で、父と関わりを持つことが苦手だった。少しでも気持ちが落ち着かないと、暴言を吐きまくって、たまにしか帰ってこない父を怒らせたり嫌な気持ちにさせていた。父も父でいつもは無口なくせに、怒るとすごく恐くて、私はだいたい(帰ってくんじゃねーよ)と思っていたし、そんな態度の私を見て父も「帰ってくるんじゃなかった」とよく言っていたのを覚えている。帰ってくるたび喧嘩になるのに、んで帰ってくるんだよって思っていたけれど、少しでも家族と過ごしたい、会いたい、と父が家族を愛していたからの行動だと、当時の私は気づくことも理解することもできない、相当な未熟者だった。
大学生になって、私は東京に上京した。初めての都会で初めての一人暮らし。環境に慣れるまで、さみしくてさみしくて苦しい毎日を過ごしていた。消えたいと思う時もあった。そんな私を助けてくれたのが父だった。気分転換にドライブに連れて行ってくれたり、ご飯に誘ってくれたり、岩手にいる母の代わりに父が私を気にかけてくれていた。「なんか食いたいもんねぇが~」「元気が~?」と時々LINEがくる。それが結構嬉しかった。会っても特になにか聞いてくるわけでもなかったし、大体無口のままだったけど、すごく安心できる時間だった。生活に慣れると父とのLINEも出かける回数も減って、特にその時のことについて感謝を述べることはしなかった。まだ私は未熟者だった。
新社会人になって、私は看護師になった。看護師は思った以上にハードで厳しい仕事だった。しかもコロナ禍で溜まったストレスをうまく発散することが難しい環境であった。もうダメだ…。と限界に達しそうになっていた時、助けてくれたのはやっぱり父だった。「カレー作りすぎたから、食うが~?」とメッセージがきて、食べにお邪魔するを何回もやった。その度に私は静かに泣いた。ホッとしてなのか、カレーが美味しすぎてなのか分からなかったけど、涙がぽろぽろでた。父はその涙に気付いていたかは分からなかったけど、「いっぱいけぇよ!(食えよ)」と、それだけ言って特になにも聞いてはこなかった。ありがとうと言いたかったけど、泣いているのが恥ずかしくて、言ったらもっと泣いちゃいそうで、言うことが出来なかった。まだまだ未熟者だなと思った。
社会人5年目になっても、誕生日プレゼントとかクリスマスプレゼントとかそういう物はあげたりはしていたけれど、感謝の言葉を直接伝えるということはまだ出来ていない。父とは今も時々ご飯に行ったりすることがある。変わらず父は、「いっぱいけぇよ(食えよ)!」というだけで、特に私に関して聞いてきたりすることはなく、黙々とご飯を食べる。最近思う。父は私が思っている以上に、私のことを愛してくれていると。本当はずっと前から、こうやっていっしょにご飯を食べたり、ゆっくり何かをする時間がほしかったんだろうけど、常に反抗期の私との関わり方が分からず模索してくれていたんだと思うと、うれしい気持ちと、父にごめんなさいと謝らなければいけない気がする。ありがとうと、わたしも父のことが大好きだよと伝えなくてはいけない気がする。父は去年で60代。健康で元気で生活することが当たり前ではない年齢に突入した。“孝行したい時に親はなし”ということわざ通り、人は突然いなくなってしまう生き物だ。私はいつまでも未熟者でいてはいけない。後悔しないように父に今までの感謝の気持ちを伝えようと思う。そしてちっちゃいころから変わらず大大大好きだよと言うんだ。父はそれでも黙々とご飯を食べて、特になにも言わないだろう。私も照れ隠しで、父に似た薄めの唇で、大きな口を開け黙々とご飯を食べているような気がする。私は父に似ている。父のチャームポイントを受け継いで生きていけることがうれしい。
※受賞者の年齢は作品応募時の年齢です