お父さんへの作文コンクール入選結果2024
「お父さんへの作文コンクール」
入賞作品発表!
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野入 桃子(10) 福岡県
パチッ。パチッ。今朝も聞こえる不気味な音。父が薬を準備する音だ。大小合わせて合計九個。それに加えて粉の薬も飲まなければならないからおどろきだ。
「ママのご飯を食べる前に腹いっぱいだよ。」
そう父がぼやくけれど仕方がない。生命い持には必要なことなのだから。
父は、抱えている病気があるから薬をたくさん飲んでいる。飲む薬が多すぎて胃に負担がかからないように胃薬までのむ。薬を飲むために飲む薬って一体なんなのだろう。私にはよくわからないことだらけだ。薬は朝、昼夕の毎食後と寝る前。とどめに食前。
「どれだけ飲めばいいんだよ!」
父の薬に向かって、そうツッコミを入れたい。
父は粒状の薬を飲めば、
「のどにひっかかる。」
と言い、粉状の薬を飲めば決まってむせる。毎日飲んでいるのだから、もういいかげんに慣れてほしい。私は花粉症なので、花粉の時期に薬を飲む。たった一粒のそれでも飲みにくいのだから、薬の量を考えたら父がぼやくのも無理はないのかもしれない。
ある日、『笑うことでめんえき機能が上がる』という記事を新聞で読んだ。「めんえき」
というのは、病気の原因になる物質が身体に入って来た時に、それをやっつけてくれる自分の細胞の働きのこと。笑うことで幸せな気持ちになると細胞が良い働きをしてくれるなんてすばらしい。その結果、症状が消えたり軽くなることもあるそうだ。この情報を得て私は、父の薬を減らすべく作戦を立てた。父を笑顔にして自己めんえきをあげる作戦だ。飲む薬が多すぎることで満腹になって、母の作るおいしいご飯を食べられないなんて、とても残念なことだから。
夕食の時、その日にあった面白い話をする。父は笑いながら私の話を聞いてくれる。「お返しに」と、今度は父が面白い出来事を話してくれる。父の話に私は笑い転げてしまう。私が病気もせずに健康なのは、母のおいしいご飯と、父の面白い話のおかげなのかもしれない。父を笑わせようとしているはずが、私の方がいつも笑わされてばかりだ。
人の感情はとても大切だ。幸せと思えることが多ければたくさん笑顔になれるけれど、つらいことが多ければ笑顔は消える。「笑うことでめんえき機能があがる」とわかっていても、笑えない時だってある。大人だってつらい時はつらいのだ。だからこそ、気持ちをまわりに伝えることが大切なのかもしれない。つらいと言えることで心が救われることも、きっとあるはずなのだから。
パチッ。パチッ。不気味な音と共に今日も父のぼやきが始まる。そんなぼやきを私は、
「そうだよね。大変だよね。」
と、やたら大げさに共感して聞いてあげる。作戦実行から三か月が過ぎた。いまだに父の薬の数はひとつもへっていない。けれど、父が薬を飲むときにむせることはなくなった。たとえ今はこれだけでも、すばらしい成果だと私は思う。この作戦で、いつか父の薬がへる日がやってきたらいいな。
私の夢はパン屋になることだ。将来、私が焼いたパンを父がうれしそうに食べてくれる。そして、とっておきの笑顔で父が私にこう言うのだ。
「こんなにおいしいパンを食べたら、薬なんかなくても健康になってしまうな!」
お父さん。毎日ぼやきながらも、楽しく笑って、長生きしてね。
見澤 有美(39) 埼玉県
幼い頃、私は勉強が苦手だった。いや、正直に言うと嫌いだった。ひらがなが書けるようになったのは2年生だし、九九なんか未だに間違える。出来損ない?そうかもしれない。何をやっても出来のいい兄には適わなかった。
そんな状況にやきもきしていたのだろう。休日になると父が勉強をみてくれた。しかしなかなかペンが進まない。計算。漢字。絵画。作文。原稿用紙以上に真っ白になったのが頭の中。
「なんで書かなんだ?だって宿題だろ」
父は苛立った。書かないのではなく、書けないんだ。そう思ったが言えなかった。失敗したら、きっと、怒られる。そんな気がしていつまでも下を向いていた。
あれから自分も親になり、息子の宿題を見るようになった。
「なんで何も書かないの?」
「だってぜんぜんわからないんだもん」
「ひと事くらい何かかけるでしょう」
「なにかいていいかわからない……」
「そんなこと言ったって宿題じゃない!」
下を向く息子はかつての自分。声を荒げる私はかつての父だった。結局私も父とおんなじ。子どもの気持ちに寄り添えない、ダメな親だった。
しかし、である。久々の帰省中。その状況を見た父が「オレにまかせろ」と言い出した。なんだか嫌な予感がした。宿題を前に息子は相変わらずの様子。目はうつろ。何を考えているのかもわからない。むしろ何も考えたくないようにも見える。
そんな息子の前でいきなり父が消しゴムを並べ始めた。
「ほーら。おもしろいだろぉ」
自慢するように一つ一つ机に並べる。ウルトラマン。ピカチュウ。キリン。ゴジラ。ティラノサウルス。この日のために用意していたのだろう。突然現れたキャラ消しに息子も思わす前のめり。
「これはお前の応援団だ。間違えたら消せばいい。どんどん使ってくれ」
息子は机に向かいだした。やりかけの日記。計算。ひらがな。それらを次々とこなしてゆく。
「1+3は5じゃないよ」
父が言うと「あ!消さなきゃ」と笑う。「く」の文字が「>」になっても「こんどはどれで消そうかなあ」とにんまり。何だか間違えたことさえ嬉しそう。全然かけなかった日記だって父のおかげで一歩踏み出せた。
『ぼくわきようたのしかつた』
間違いだらけの日記。それでも消しゴムをたくさんくれた父はいい言葉もたくさんくれた。
「間違えてもいいんだよ」
「間違えた方がいいんだよ」
「間違えたら消せばいい。とりあえず書いてみよう」
それを見て思った。消しゴムの役割は消すことじゃない。間違えてもいいんだよ、と安心させることなんだ。そして人生における消しゴムとは「僕がついてるから思いきりやってみろよ」と安心させる人。息子にとっては父だった。
その様子をキッチンから見ていた母は「お父さんも消しゴムみたいに角が取れたのね」とはにかんだ。私もクスっと笑った。
本当は私もそうして欲しかったけど、それがかなわないから息子が貰った消しゴムはちょっと羨ましくて、すごく愛おしい。
果たしてこの先。息子はどんな人生を歩むのかな。前に進むのが怖くなった時。不安な時。「間違ってもいいんだよ」と背中を押せるような親でありたい。
そんな気持ちでウルトラマンの消しゴムを見ると、なぜだろう。自然と勇気がわいてきた。
熊谷 碧歩(6) 東京都
ぼくのおとうさんは、くるまのうんてんがじょうずです。まいにちたくさんの人ににもつをとどけるおしごとをしていて、おおきなくるまをうんてんできます。
おかあさんはうんてんがにがてで、ぼくたちをようちえんにおくるときもむかえにくるときも、いつも
「こわい、こわい。」
といいます。でもおとうさんはぜんぜんこわがりません。
ちゅうしゃじょうでも、くるまとくるまのあいだにいっかいでとめられます。せまいみちもすいすいはしれるし、おおきなくるまとすれちがうのもじょうずにできます。はじめてのばしょにいくのもへっちゃらです。よるのくらいみちも、こうそくどうろも、どこでもじょうずにうんてんできます。
そんなおとうさんをみてぼくはいつも
「すごいな、かっこいいな。」
とおもいます。そして、おとうさんがうんてんするくるまにのりながら
「ぼくも大人になったらおとうさんみたいにかっこよくうんてんできるようになるのかな。」
とかんがえたりします。そんなはなしをしたら、
「あと十二ねんしたらくるまのめんきょがとれるよ。」
とおとうさんがいいました。
ぼくが十八さいになってめんきょをとったら、いちばんさいしょにおとうさんをくるまにのせてあげたいです。ちゅうしゃじょうにかっこよくとめて、はじめてのみちもせまいみちもくらいみちもこうそくどうろもかっこよくうんてんして、おとうさんをびっくりさせたいです。そしてぼくがうんてんするするまにのって、二人でたくさんいろいろなところへあそびにいくことがぼくのゆめです。
池田 茉白(16) 千葉県
幼い頃に、まっ暗な空から暖かな街灯の光に照らされて輝く雪がハラハラと舞い落ちてきたという記憶がある。かじかむ手のひらと頬にささる冷たい空気を感じた後、私は家族と救急車に乗っていた。救急車の中で母は横たわり、父は私を膝に乗せ、私は初めて乗る救急車にワクワクしていた。これは、私の妹が生まれた日の記憶である。切迫早産になった母は産院に入院したその日に陣痛が始まってしまい、深夜にNICU(新生児集中治療管理室)が備わった大きな病院に救急搬送されることになった。連絡を受けた父は、ベビーカーに私を乗せて雪がちらつく中、猛ダッシュで病院に駆けつけ救急車に同乗した。妹は未熟児で生まれたものの幸いなことに何の問題も無く、現在も非常に乾いた態度で生意気な口ばかりを叩いている。
そもそもなぜその日、タクシーを使わずにベビーカーを押して猛ダッシュしたのだろうか。当時、我が家に車は無く出産の際の非常時にはタクシーを使うという話になっていたそうなのだが、母が急に入院して父が夕飯の惣菜などを購入したため所持金が無くなってしまったのである。付き添いの家族がなかなか来なかったため、先に母だけを救急搬送しようとした矢先に父と私が何とか病院に到着したそうだ。父はいつもタイミングが悪い。母からもいつもその事で理不尽に叱られたりしている。私から見ても、いつもいて欲しい時にその場にいなかったりする。
では、私が生まれた時はどうだったのだろうと思い、父母から話を聞いてみた。私が生まれる日の早朝、母が破水したという連絡を受けた父は急いで品川駅から新幹線に飛び乗り、橋を渡り香川県に駆けつけたそうだ。初めての出産ということもあり、立ち会い出産に臨んだ父は、動画を撮ると息巻いていたにもかかわらずあまりの凄まじい場面に萎縮して録画することを忘れてしまい、動画は出産後から祖母の失笑とともにスタートしていた。その時父の手はぷるぷると震えていたそうだ。動画の中で、出産直後の母に「お疲れ様。」と声を掛けた父は、助産師さんに「お疲れ様では無くこれから始まるんですよ。」と一言いただいていた。生まれたばかりの私は母の胸元に乗せられたのだが、父が「あ!」と声をあげた後、間抜けな声で「へへっ。」と笑った。どうも母の胸元でどういうわけか私は突然おしっこを
してしまったらしい。こういう所を父は見逃さない。いて欲しい時にはいないくせにいなくていい時にはしっかりいるのだ。
よくよく考えてみると父は、タイミングが悪い人間にもかかわらず私と妹の生まれる時にはちゃんと居合わせていた。ということは、父なりに相当頑張って間に合わせたのだろう。父は、家族の非常時にはどんな時間でも、どんな天気でも、遠い場所からでも駆けつけていたのだ。まるでスーパーヒーローみたいじゃないか。私も親になった時、そんな父を見習いたいと思っている。面と向かって言うのも恥ずかしいので、テレビを見てあの日と同じように間抜けな声で「へへっ。」と笑っている父の背中に、そっと「パパ、いつもありがとう。」と念を送っておいた。
吉井 咲喜(13) 群馬県
昔からお父さんはだらしがない。朝は私やお母さんよりもずいぶんと後に起きてくる。そのくせに「おはよう!」と元気な調子だ。
お父さんは散らかし屋だ。自分の部屋はおろかみんなのいる場所、リビングだってお父さんがいる隅っこは何が置いてあるのか、私にはゴミの山のように見える。お母さんに
「かたづけて!」
と言われても
「いやぁ、ごめんねえ。」
と愛想よくどこ吹く風だ。
私はお父さんと違って剣道部や塾、学校の課題もあり忙しい毎日だ。お母さんだって仕事をしながら料理に洗濯もこなしている。でも、お父さんは仕事に行って帰ってくればゴロゴロしていることがおおい。休みの日だってお母さんは買い物や映画館へ連れて行ってくれるけど、お父さんは決まって
「留守番をしているから。」
と庭の芝刈りをしているくらいだ。
私は中学生になり、あまりお父さんと話す機会が減ったと思う。というよりも、わざと話す機会を減らしたというほうが正しいかもしれない。
おじさんになってきたお父さんは少しめんどくさいところがある。お母さんとの会話のようにすんなりいかないのだ。だから私は『行ってきます』や『ただいま』のあいさつすらあまりしなくなった。
そんなあいさつをしない日が続いたある日、めずらしくお父さんが
「おかえり、ちょっといいかい?」
と部活帰りの私に寄って来た。
お父さんは
「あいさつには意味がある。」
と、いつにもなくまじめな顔をしている。
「行ってきますは必ず戻るの意味があるし、ただいまには予定通り帰れましたの意味があるんだよ。」
と言うのだ。続けて
「だから他の何をしなくてもいい。あいさつはしっかりしなさい。」
と言い終え、奥の部屋にいなくなった。
あいさつには本当にそんな意味があるのかわからなかったが、ふとあの日の事を思い出した。
私が友達と遊びに出掛けて、約束した帰宅時間よりずいぶん遅くなった夜、お父さんは庭に出てうろうろと歩いて待っていたのだ。帰宅した私に、
「おかえり。」
一言だけ言うと、お父さんは家に入ってしまった。お母さんは
「大丈夫か?連絡はきたか?なんて、ずっとお父さんは心配していたんだよ。」
と話していた。
お父さんにとってあいさつは大切なコミュニケーションなんだとわかった。
私は『あいさつ』そのものの意味が気になり調べてみると、有難うやお早う、御免なさい、済みませんにもしっかりと意味や由来がある事が分かった。
あいさつの大切さを教えてくれたおとうさん。ちょっと見直した私はその日以来、小さい声ながらも欠かすことなく必ず『行ってきます』『ただいま』のあいさつをしている。なんとなく恥ずかしさもある。しかし、お父さんはうれしそうだ。
「いってらっしゃい!」
と朝から大きな声だが、悪い気はしない。
お父さんはいつも通りお母さんに注意されたり何か言われているけれど、さすがはあいさつ名人だ。うまいやりとりをするもんだなあと自分のお父さんながら感心している。裏技でもあれば今度お父さんに教えてもらおう。
来住 裕志(61) 東京都
電話のベルがけたたましく鳴った。小6の僕は、自室から居間へ素早く移動し受話器をあげた。チラッと柱時計に目をやる。午前2時過ぎであった。一瞬の静寂…。腹に一物、相手が言葉を発するや否や、『今、何時やと思っとんねん。丑三つ時や。失礼やろ…。』ガチャ!当然のように切ってやった。とその刹那、両親が珍しく寝室からすっ飛んできた。母の後ろ側にいる父は、手持ち無沙汰に上気した頬をゆっくりと撫で回していた。早々、『何で切ってしまったの?大事な用件で、ずっとその電話を待っていたのよ!』といつもはおっとり気味の母が気色ばんだ。正しいことをしたと思っている僕は、もう、びっくりである。
ある疑問が頭をよぎる。こんな真夜中に電話をしてきても許される職業とは?誤解を恐れず言えば、はぐれ者、芸人、夜のお仕事、広告関連、報道・テレビ局関係者。はっ、もしかして?結果、その「もしかして?」が大正解であった。
僕は、両親に『ごめん。』ペコリと頭を下げ、逃げるように自室に戻りふて寝した。その後の顛末は、聞く気にもなれず、永い時間が経過した。父が亡くなり迎えた通夜の晩、母にあの丑三つ時の無礼な電話の真相について聞いたのだが、驚くべきことが判明した。
あの電話の主は、やはり報道関係者だった。昭和49年3月、フィリピン・ルバング島から帰還した〇元少尉に日本中が熱狂した。僕の父も〇氏と同じ陸軍士官学校出身。同方面への派遣で隣の小隊長(少尉)同士であった。そして、件の迷惑なベル音は、彼の帰還に対するコメントを求める新聞記者からの取材電話だったのだ。取材を受けた父は、その後、東京で開催された「〇氏の帰還を祝う会」にも参加した。そして、これを機に、彼に内在した「本当の意味での戦後」とようやく訣別することができたと母から聞かされた。形はどうあれ、稚拙な僕は、そんな父の崇高な幕引きの儀式の出鼻をくじいてしまったのだ。『おやじ、本当にごめんよ。おかげで僕も平和への願いや命を賭して守るべき家族について、改めて考えることができたよ。ありがとう。』ただ、この時ばかりは真摯に反省した。
どちらかと言えば、戦記物を好んで鑑賞していた父に、まさかそんな過去があったなんて?ただ優しい父からは、その片鱗すらうかがい知れなかったので、心底驚いた。
思い返せば、「○○小隊長殿、やっとお見つけしました。お元気であらせられましたでしょうか?」と、文面からも分かるほど、恐縮しきりのお年賀が届いたことがあったよな。
父の墓前で手を合わせながらそっと目を閉じる。瞼の裏に顔をくしゃくしゃにしたお茶目な笑顔が、シャワーのように降ってくる。父が大好きだったヴィック・モロー主演、「コンバット!」のテーマ曲がどこからともなく、やわらかな風に運ばれ聞こえてきた。
鈴木 恵美(58) 宮城県
今から四十年以上も前、父が亡くなる直前、麻痺のある体で一時帰宅した時のことだ。
私の中で些細なことが積もってしまい、久しぶりに帰ってきた父と衝突してしまった。「子どもに無関心」な父が怒っているのだから、どうにもこうにも面白くない。
(父さんは私がかわいくないんだわ)
母が様子を察し、気を遣って私を呼ぶ。
「恵美、ご飯の用意、手伝って?」
「食べないから手伝わない」
「どうして?今日は栗ご飯よ」
「要らない。私のことはほっといて」
父と夕飯をいっしょに食べるどころか、家族と同じ空間に居ることさえはばかられる。
そんな私の傍らで、難からうまく逃れた妹が白々しく和歌を詠み始めた。
「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ」
どうやら妹は「栗」に反応したらしい。
「えっ、急に何言ってるの?」
「ほら、今テレビでやってる。憶良っていう人の歌らしいけど、お姉分かる?野菜の、あのネバネバしたオクラじゃないよ」
「私だって知っているわ。『瓜を食べれば子どもにも食べさせてあげたいと子どものことが思われる。栗を食べればまして偲ばれる』っていう歌でしょう」
山上憶良が愛するわが子を想って詠んだ歌ってことぐらい知っているわ。読書好きの私は万葉集の本を読んだばかり。その時にうちの父とは真逆であろう憶良に衝撃を受けたので、この和歌は印象に残っていたのだ。
「お姉、意外と分かっているのね」
「当たり前じゃない!」
私は横目で妹をにらんだ。
「おぉ、怖い怖い。お母さん、助けて?」
お調子者の妹が母の元に逃げていった。
気の障る物の言い方をする妹に腹が立ちながらも、ずっと頭の片隅で考えている。私の目の前にいる、かつては仕事人間だった父。そんな父は憶良ほどではないにせよ、子を愛せる父親なのだろうか、と。
「ねえ、父さんって何かを食べて私を思い出すことあるの?」
「ん……」
父は厳しい表情を崩し、顔を緩めてテレビ画面を指さした。
「銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも」
画面にはタイミングよく憶良のこの歌。子は宝だと思うのは憶良だけではなく、どんな親も同じと言いたいらしい。
たたでさえ元からロ下手なのに、言語障害もある身。だったら元気なうちに、たまには憶良のようにはっきり愛情表現してくれていたらいいのに。不満と悲しさでロをつぐんでいると、母が父の気持ちを代弁するようこう言った。
「どんな宝石も子どもにはかなわないわ。親にとって、子どもに勝る宝ものはないもの」
すかさず父が聞き取りにくい声で、必死にボソボソッ言う。
「うちの宝、ニつ」
当時は父が本当に素っ気なく、愛されている実感がなかったが、この一件で私の悶々とした気持ちが一掃。心にさわやかな風が吹き抜けた。父が最期に「私は父の宝物」というメッセージを残してくれたことで、私はこの先強く生きていく決心ができたのだ。
親子としては短い時間だったけど、一生懸命働いて私たちを育ててくれてありがとう。
あの時の父への溢れんばかりの感謝の気持ち。四十年以上経った今も色褪せることなく私の心にしっかり刻み込まれている。