お父さんへの作文コンクール入選結果2022
「お父さんへの作文コンクール」
入賞作品発表!
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西浦 星成(5) 徳島県
ぼくのパパはとってもやさしいよ。ヤモリがすきなぼく。よるになるとパパとのヤモリさがしがはじまる。パパはどんなにつかれていても、あめのひいがいはぜったいいってくれるんだ。かいちゅうでんとうをにぎりしめて、しろいかべをつぎからつぎにてらしていく。
あるひ、かべのたかいところにかわいいヤモリがいたよ。パパはいえからながいながいはしごをもってきた。
「パパがんばって。」
ぼくはおうえんする。パパはくらいよるのなかはしごをのぼる。
「やったあ。もうとれる。」
ぼくがそういったとき、パパのうごきがとまった。
「パパ、ヤモリさわれんのわすれとった。」
パパがさけんだ。パパはヤモリをさわれない。さわれないけど、ぼくがヤモリをすきだからいっしょうけんめいさがしてくれていたんだよ。ヤモリはどこかにいっちゃった。でもぼくはかなしくなかったよ。だってね、パパとのヤモリさがしはとってもたのしいから。あしたもあさってもそのつぎもパパとのヤモリさがしはおわらない。パパいつもありがとう。
岸本 一花(17) 愛知県
私は父が好きである。
どれくらい好きかと言うと、父が好きなところについて本が数冊書けてしまうくらいである。
父の好い所を挙げたらキリがない。
布団を被らずに寝てしまったときに布団をかけてくれるところ。麦茶が無くなりそうになったら沸かしておいてくれるところ。それから、おひるごはんが素麺のときに庭から大葉を摘んできて切ってくれるところも。
それから・・・。
父は天然である。
病院に連れて行ってもらったときには、診察用紙に「痛」の文字が書けなくて結局私が書いたし、彩り(いろどり)寿司を「あやりずし」と読んでいた。
従姉妹の結婚式で素晴らしいスピーチをしていた禿げているおじさんがいた。スピーチの後に父は
「いやあー!さっきのスピーチ良かったですー!」
と話しかけに行った。違う禿げている人に。そんな父の額は光っている。
この前は「この世界の片隅に」を「この片隅の隅に」と言っていた。どれだけ隅に行くんだよ。すみっコぐらしかよ。
父は寡黙である。
寡黙なおかげか「こだわりが強い人風」に見えるが実際はそんなことはない。
コーヒーは豆から挽きます、みたいな顔をしているが、毎朝インスタントの安いやつで済ませている。
そんな父はお酒を飲んではじめて普通の人と同じくらい喋るようになる。といってもそれはとても珍しいことで月に一回あるか無いか程度だ。
出来上がっている父は非常に珍しい。よく笑うし、面白いことも言う。たまにしつこく絡んでくるが、私はそんな父も新鮮で嫌いではない。
酒はたまに飲むがタバコは吸っていない。厳密に言うと前までは吸っていた。健康に良くないのとお金がかかるから辞めて欲しいと思う反面、たばこを吸っている父をかっこいいと思う気持ちもあった。
ちびまる子ちゃんの話にまるちゃんがタバコを吸う父ヒロシのために灰皿を作るという話がある。まるちゃんがヒロシのことをかっこいいと思うように、私もまた父のことをかっこいいと思っていたのだ。
そしてこれは喫煙者がみんな、だとかタバコの銘柄が関係しているという訳ではない。
父だから当時百九十円の「わかば」でもかっこよく見えたのだ。
当時小学生だった私は体に悪いとわかっていたけれどタバコを吸っている父のそばによく行って、学校であった話などを一方的にしたものだ。父は寡黙な代わりに聞き上手なのだ。そんな訳で禁煙することになったときは嬉しい気持ちと寂しい気持ちが入り交じった。
そして何より、父といると安心する。
父は平日休みで、学校が終わって帰ると父がいる日がある。
特に何かする訳では無い。でも、無性に嬉しくなる。
私が不登校になったとき、何もかもが信じられなくなってみんなが敵だと思っていたとき、父はなにも言わなかった。その代わりに私を優しく抱きしめてくれた。愛情を伝えるのに言葉なんて要らなかった。
私は父に愛されているのだと分かった。
十七の娘がこんなにも父を愛しているのは、父も私を愛してくれているからである。
素敵な父からの愛情を存分に受けて育った私は本当に幸せだと思う。
この作文も所謂父へのラブレターだと思う。恥ずかしいからとても見せられないが。
そんな父も定年まであと二年である。あんなにかっこいい五十八歳は多分、父とジョニー・デップしかいない。
この前母に
「結婚相手を見つけるならパパよりも素敵な人じゃないと認めないからね。」
と言われたが、恐らく一生見つからないだろう。今のところジョニーデップと結婚するしか策はない。
もちろん父とは結婚できないので本屋やスーパーに二人で出かけるときに助手席に座って束の間のデート気分を味わうことにしている。
思い出した。車を発車するときにいつも
「出発するよ?いい?」
と確認してくれるところも好きである。
こんな風に友達などに言うと大半が苦笑いして
「素敵なお父さんで良かったね。」
と苦し紛れに言葉を紡ぐ。無理はない。
今こうやって文章を書いていて自分で自分に引いている節があるからだ。
しかし、こんなに父の良いところを知っているのは私と母だけだ。
どれか一つについて書くなんてとてもできない。全部大好きなのだ。
これからも父というかけがえのない存在を大切にしていきたいし、父の大好きなところをもっと見つけていきたいと思う。
青野 敏子(33) 東京都
小学生の頃、私は顔が大きくてお父さんにそっくりなことが嫌で、お母さんに「なんでもっとハンサムな人と結婚しなかったの!?」と怒ったことがありました。お母さんは、
「そうだよね、きっと大きくなったらわかるわよ。」と微笑みました。
「分かるわけない。」そう思って過ごしてきました。
中学の頃は、お父さんと同じ空間にいることも嫌で舌打ちしたり「キモイ」と暴言を吐いていた私に「ははははは!」と大笑いされ逆にイライラしました。
高校一年生の夏、一晩で髪を金色に染め、ピアスをあけた私に父は、いつもと全く変わらない反応で「そうかそうか」と笑っていましたが、感想くらい言ってよと、怒りを逆なでされました。
大学入学に際して一人暮らしをしたいと懇願したときは、お母さんには反対されたけれど、お父さんは少し考えてから「自分で決めたことなら頑張ってね!」と送り出してくれました。
私が仕事に忙殺され、うっかりどこかに自転車を置いてきて無くしてしまったことがありました。その時、激怒するお母さんの横でお父さんは「地球上のどこかにあるはずだから大丈夫だよ。」とにっこり言いました。
私は結婚して母になりました。そこで気がついたことがあります。太陽のようなお母さんのお陰で家族が成り立っていると思っていたけれど、それは少し違っていたようです。お父さんという「大空」があって初めて、太陽のように明るいお母さんも私達こどもも平和に過ごせるのだと思います。そして今、私はお父さんにとても良く似た旦那さんの
「大空」のもとで明るく過ごすことができています。私のお父さんでいてくれてありがとうございます。お父さんそっくりの自分の顔も大好きです。
井口 泰子(70) 神奈川県
父が九十四歳で亡くなって、二年になる。
父は八十七歳の時、癌になり、少しずつ体が弱っていった。しかし、杖をつき、敢えて外に出た。足腰を鍛えたかったのだ。外に出て、自分に刺激を与えたかったのだ。体は九十度に曲がっていたが、小さい歩幅で脇目も振らずに歩いた。やせ細った小さい体で、睨むように前を向き、人を寄せ付けない厳しさが、体中を貫いていた。
ある日、父と歩いていると、車が止まり、
「お送りしましょうか。」
と言ってくれた人がいた。父と私は、
「歩く練習をしているので」と丁寧に断った。
厚意に対しては礼を尽くす父であったが、この時は複雑だった。前向きに取り組んでいるのに、弱々しい老人に見られたことが、悔しかったのだ。
癌と闘いながらも、父は、新聞を丹念に読み、時には俳句・川柳を投稿した。掲載されると、本当に嬉しそうだった。好きということもあったが、句作を続けることが、自分を律することに繋がると考えていた。
九十歳を過ぎると、父は以前にも増して自分を鼓舞するようになった。
「がんばるしかない。諦めたら、そこで終わりだ。」
「一センチでも一ミリでもいい。前に進め。」
何度も声に出して、自分に言い聞かせていた。会社員時代のように、自分を奮い立たせていたのだ。私は、父の真剣さに度肝を抜かれた。
癌・老いに負けたくない。僅かでも前に進もうと必死だった。敵は、弱音を吐く父自身であった。自分を鼓舞しなければ、受け身の生活になってしまう。たった一歩の譲歩が、それまで積み上げたものを、駄目にしてしまうことを、父は、分かっていた。
亡くなる半年程前から、着替えに時間が掛かるようになった。しかし家族の手を借りず、一時間近く早く起き、自分で着替えた。私は、父の意思の強さに圧倒された。
ベッドにいる時間が増えても、家族の一人ひとりの動きをよく見ていた。そして言うべきことは、厳然たる態度で家族に伝えた。感謝を言うことはあっても、卑屈になることはなかった。
父は最期まで自分の生き方を貫いた。身を以て、私に生き方を示してくれた。凛とした人生だった。
私が、八十歳・九十歳になった時、父のように生きるのは、容易ではない。でも、それは、私の義務だと思う。なぜなら、父の深い思いを全く理解せず、冷たく接した時が少なくなかったからだ。父の悲しい眼差しが忘れられない。しかし、父は、長い目で私を見守ってくれた。信じてくれた。父に心底、謝りたい。
私の残りの人生を、父のように生きると心に決めた。人に頼らず、自分を叱咤激励して生きる。自分を絶対に諦めない。私にとって、これ以上も、これ以外の人生もあり得ない。私にできる、父への最後の詫びであり、感謝である。
父は、私の命の中にいる。
三宮 和子(21) 神奈川県
今まで出会った人の中でいちばんやさしい人。料理がとっても上手な人。意外と背が高くて私とちょっと顔が似てるかっこいい人。雑学をたくさん知っている人。カメラを向けると変顔しかしない人。典型的な親父ギャグで私を笑わしてくれる人。野球が好きな人。洗濯物をたたむのが上手な人。これが、私の知っている、私のお父さんです。
お父さんは仕事人間で、私が小さいときからたまにしか家に帰ってこなくて、一年に一・二回くらい一緒に遊びに行ける、私が心待ちにする日がありました。私が成長するにつれてその機会もどんどん減っていき、いつのまにか家ではお父さんの姿を見かけなくなりました。それでも私は、たとえ離れていても、お父さんはお母さんのこと、お母さんはお父さんのこと、ずっとずっと大好きなことは永遠に変わらないと信じていました。
でも、私は末っ子だったのもあったのか、何にも知りませんでした。気付いたら、お父さんとお母さんの離婚が決まっていました。私の中で永遠だと信じていたものが、永遠ではなくなってしまったように感じて、心にぽっかりと大きな穴があいてしまったようでした。これが事実だとすぐには受け入れられなかったし、本当は受け入れたくありませんでした。
離婚から何日か後、お父さんの誕生日がありました。おめでとうのメッセージを送るか少しだけ迷ってしまいました。でも、自分のお父さんに“誕生日おめでとう”を言わない理由なんてある訳ないと思って、例年通りメッセージを送りました。次の日の朝、目が覚めるとお父さんから返信が来ていました。そこには「だめな父でごめんね、生まれてくれてありがとう」と書いてありました。これを見たとき、これが現実なんだ、と初めて実感が沸いたような気がしました。
そして今、離婚から約一年たちました。お父さんとは一年以上会っていません。それでも、お父さんが私の中から消える瞬間はなくて、今でも至るところでお父さんの影を探してしまいます。少しでもお父さんの姿がよぎるものを感じたりすると、目頭がじんわりと熱くなります。
ずっとお父さんのことを考えていて、分かったことが一つだけあります。それは、私はお父さんのことが本当に大好きだということです。頭で考えているよりも、心はずっとずっとお父さんのことが大好きなようです。幻のように感じるときもある昔のお父さんも、今のお父さんも、そしてこれから先のお父さんも、永遠に大好きです。
そんな今の目標は、大好きなお父さんに誇りに思ってもらえるような娘になることです。一生懸命努力して、お父さんに幸せな姿を見せてあげたいし、お父さんも幸せにしてあげたいです。だから、私が自信をもって一人前になれたら、お父さんに会いに行こうと思います。すごく緊張してしまう気がするし、きちんと自分の言葉で伝えられるか自信はないけれど、絶対に会いに行って“私をうんで、育ててくれてありがとう”と感謝を伝えたいです。
今回は、今の私の気持ちをどうしても消したくなくて、形に残しておきたくて、この作文を書きました。お父さん、いつか会える日まで、どうかお元気でいてください。そして、お父さんは永遠に私のお父さんです。
心からのありがとうと大好きを込めて。
石本 恵里香(29) 福岡県
小さい頃、私は父と一緒によく走っていた。車のほとんど通らない、新鮮な空気をいっぱい吸って、田舎の一本道を父の背中を追って走っていた。マラソン大会にも一緒に出た。ゴールは遠いのに、いつも父は決まって「あと少しだ。」そう言ってあきらめそうになる私を引っ張ってくれた。
短距離は苦手、球技も苦手、でも長距離は今でも大好き。その始まりはきっと小さい頃の父とのランニングなのだと思う。大人になっても走っていると言うと、そんなきついこと、何で今もやっているの、と聞かれることが多い。実家を離れ、一人暮らしをして、仕事をし、父と連絡を取ることは何かあったとき以外はほとんどない。だけど、そんな日常の中で、私は一人ランニングをしながら、ふとした瞬間に小さい頃、一緒に走った父との時間を思い出す。
社会人になって、父と同じマラソン大会に出た。タイムとか結果とかそういうのより、父と一緒に走る喜びとゴールした達成感を味わえたのが、何より嬉しかった。疲れ切った身体とはよそに、心は日常では感じられないくらいの栄養を与えられたように元気になった。一緒に撮った写真には満面の笑みを浮かべて写る父の姿があった。今、マラソン大会は軒並み中止になっていて、以前のような世の中はすっかりどこかへ行ってしまった。けれど、走ろうという気持ちとランニングシューズさえあれば、私はいつだって走ることができる。一歩踏み出せば、今日その瞬間しか味わえない外の空気と自分の移り行く気持ちを味わえる。
どんなにつらいことがあっても、私にはランニングというぶれない軸がある。それを教えてくれた父には、面と向かっては恥ずかしくて言えない心からのありがとうを今日も実家から離れた土地で私はつぶやきながら、ランニングシューズに足を入れる。
朝見 煌仁(8) 神奈川県
ぼくは、生まれた時からパパがいなくて、ママとくらしてきた。生まれた時からずっとパパがいなくてさびしかった。たまにおばあちゃんが来て一緒にいた。それでも、僕はさびしい気もちは変わらなかった。そして4才になったある日毎週金曜日に行っていたやき鳥屋で奇跡が起こった。僕が隣にすわっていた男の人を指でつんつんしてみた。そしたら、ふり向いてくれた。それを何回もやってみると、なんとママとその男の人がけっこんする事になった。僕はパパがいなかったので、その男の人とママがけっこんするのをすごくよろこんだ。それから7才になって僕はパパから手紙をもらった。手紙をよんだら、僕がお勉強をしている姿を見てパパも頑張ろうと書いてあった。僕はそれを読んでびっくりした。次は僕がパパが頑張っている姿を見習おうと思う。
僕のパパになってくれて有難う。いつまでも僕のパパでいてね。
いつかパパみたいな大きなせ中になりたいな。
吉田 朝美(21) 大阪府
働かない父に苦労ばかりかけられてきた。躁うつ病のせいもあったのか、頭に血が上ると制御が効かなくなるのでどこへ行っても仕事が続かない。調子の悪い時は被害妄想が激しくなり、母や私たち兄弟に当たり散らした。普段は優しい父が突然目の色を変えて暴走する姿は、何度見ても悲しかった。不安定な父は昔から精神病院への入院や家出を繰り返していたが、私が十五歳の頃にようやく離婚が成立し、完全に家からいなくなった。
父がいなくなると、母は私に父の愚痴をよくこぼした。離婚は父に原因があることは明らかだったが、事実を知れば知るほど父のことが嫌いになってしまう自分が怖かった。家族にひどい苦労を負わせた父を恨みつつも、一人ぼっちになってしまった父を心配する気持ちがあったからだろう。穏やかな状態の父を忘れることはできなかった。
連絡をとることは、母から禁止されていたが、父からは時折メッセージが届いた。聞いてもいないのに近況を報告してきたり、話したくもないのに学校のことをきいてきたり。毎回一度は無視しようとしたが、しばらくすりと決まって父の寂しそうな背中が頭に浮かんできた。嫌いになったはずの父を気にかけてしまうことが悔しかったので、結局なるべくそっけなく返信した。五年ほどそんな状態が続いた。
しかし、私が二十一歳になった大学三回生の夏、突然霧が晴れるように父を嫌う気持ちがなくなった。私が少しだけ大人になったのだろうか。父を恨むことにもはや何の意味もない、と思えるようになったのである。母は、あれから別の人と新たな愛を育み、幾分穏やかになった。姉は結婚して二人の子どもを授かり、兄や弟も好きなことを何だかんだ楽しそうにやっている。私自身は念願の大学で好きな勉強ができて、好きなものと沢山出会い、おまけに心の底から信頼できる男性に出会えた。貧しい一人暮らしを強いられているが、それでも胸を張って幸せだと言える。
父を恨む気持ちがなくなると、突然父と話がしてみたくなった。もう何年もまともに話せていない。これまでに起こったことを一番正直な気持ちで話して、今の私を見て欲しい。もしかすると当てつけだと思われるかもしれない。しかし、私は失われた時間を少し埋めたいだけだ。未だに「またかけっこしような」とメッセージをよこす父である。私のイメージは、小学校の頃で止まっているに違いない。父がいてくれて、私を生んでくれたおかげで今はこんなに幸せに暮らせていることが伝わればいい。そして父も同じように、新たな人生を幸せに歩んでいてほしい。もしもまた会える日が来たら、きっと今までで一番素直に話せるだろう。